『奇跡のコース』ワークブック・レッスンの気づきを綴っています
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Lesson323:わたしは、喜んで恐れを「犠牲」にします。
  
犠牲については昨日復習をしました。
 
もしこの世界がリアルで、この身体がわたしなのだとしたら、天国にゆくのは、文字通り死ぬことになってしまいます。この世界のあらゆる楽しみ、喜びを諦めて、無色透明になる。名前を失う。からだを失う。ワタシは、死んでしまう。それが神に還ることの意味になってしまいます。
 
けれども、決してそういうことではないのでした。
この世界はそもそも実在などしていないのだから、何も諦めることにはなりません。無いものを諦める、無いものを犠牲にするなどということは不可能です。
 
わたしとは、この身体のことではありません。
この世界には、わたしの望むものは何もありません。
 
分離を選んだという、とても奇妙な夢を見ているにすぎません。
事実ではないのに、そうなのだと思い込んでいるので、分離したことによる罪悪感、自己憎悪、恐れがつきまといます。
 
すべての問題の根っこは、これでした。
夢の世界で何を経験しようとも、どんな問題も、これによるものです。
 
 
天国とは、神に還るとは、むろん死を意味するのではなく、永遠の生命をうたうこと、愛を延長し続けること、ほんとうのクリエーションをどこまでも拡げてゆくこと・・と言えるとおもいます。
 
それならば、恐れを後にすること、つまり分離を選ばないこと、この世界を手放すことのどこに、犠牲があるでしょうか。
 
神に還るうえで、ほんとうの幸福を経験するうえで、枷になっているものを外すということが、犠牲と呼べるはずがありません。
手枷足枷をつけ、囚われの身となり、このような世界に長く留まっていたいなどと思うことは、確かに、正気ではないと感じます。
 
特別な関係性というものは枷であるし、快楽というのも枷です。
自己否定的な考えも、他者をジャッジすること、誰かに攻撃心を——たとえほんの少しの苛立ちであっても——抱くことも、みな、枷です。
 
神にいつか裁かれる、あるいは、いつか見放されると怯える思いも。
自分を身体だとみなすことも、何かにつけ恐れることもみな、枷。
 
こんなものの、どこに魅力があるのでしょう。
こんなものを大事にしている限り、宝としている限り、決して自由にはなれない。決して幸せにはなれない。
 
 
死の世界を後にして、静かに天国に戻りなさい。ここには価値あるものは何もなく、天国には価値あるものの一切がある。聖霊に耳を傾けなさい。そして、聖霊を通して神に耳を傾けなさい。聖霊は、あなたについて、あなたに語る。あなたの中に罪悪はない。神の子が神の中で祝福されているのと同様に、神は神の子の中で祝福されているからである。

(『奇跡講座 テキスト編』T-14.Ⅴ.1:8-12/中央アート出版社)
 
 
今、天国を選ぶ。
すべてをホーリースピリット、イエスに捧げる。それだけです。
 
Blessings,
 
2019.3.19
 
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ワークブックレッスン日本語版は、
『奇跡のコース』のワークを学ぶ
ガイドブック12 創造の海へ/
香咲弥須子/ナチュラルスピリットより
引用させていただきました。
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(ワークブックのレッスンでの気づきは、
4周目として取り組んでいるわたしの、
あくまでもごく個人的なものです)
 
 
 
A Course in Miracles(ア・コース・イン・ミラクルズ)には
テキスト編、ワークブック編、教師のマニュアル編があります。
日本語版は、中央アート出版、またはナチュラルスピリットから出ています。
 
ワークブックのレッスン内容の詳細については、ワークブック編をお読みください。
(こちらのブログでは詳細については記載しておりません)
 
 
 
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