『奇跡のコース』ワークブック・レッスンの気づきを綴っています
初めて読まれる方はこちら

 

Lesson322:わたしが放棄できるのは一度も実在しなかったものだけです。
  
しっかりと落とし込んでおきたいレッスン、いつも憶えていたいレッスンです。
 
わたしが犠牲にするのは幻想にすぎません。だから幻想が去ると、わたしは幻想が隠そうとした贈り物を見つけます。

と、始まります。
 
 
犠牲ということについて、ここで改めて振り返ってみます。最も明瞭に説明されているのは、おそらくマニュアル編の「犠牲の真の意味は何か」という箇所でしょう。
 

別の思考体系が定着できるようになる前にまず取り除かれなければならない最初の幻想とは、この世界のものごとを手放すことは犠牲だという考えである。この世界自体が幻想でしかないのだから、この考えが幻想でなくて何だろうか。

 
この世界が定義する犠牲で、肉体に関連しないものはない。世界が「犠牲」と呼んでいるものについて、しばし考えてみなさい。権力、名声、金銭、肉体にまつわる楽しみなど、これらすべてのものの所有者である「主人公」とは誰だろうか。こうしたものは、肉体以外のものにとって、何か意味があるだろうか。だが、肉体には評価するということができない。こうしたものごとを追い求めることによって、心は自らを肉体と結びつけて考え、自らのアイデンティティーを曖昧にし、自らの真の本性を見失う。
ひとたびこの混同が起こると、この世界の「楽しみ」のすべてが無であると理解することが、心には不可能となる。しかし、このすべては、何という犠牲を伴うことだろう。そしてこれこそが、まさしく犠牲である!

 
犠牲の真の意味とは何だろうか。犠牲とは幻想を信じることの代償である。それは、真理を否定するために支払わなければならない代価である。

(『奇跡講座 マニュアル編』/中央アート出版社)
 
 
 
認識された幻想は必ず消滅する。苦しみを受け入れずにいなさい。そうすれば、あなたは苦しみという想念を取り除くことになる。すべての苦しみをありのままに見ることを選択するとき、あなたの祝福が苦しむ者たち皆の上に注がれている。苦しみが表現されているように見えるあらゆる形を生起させるのは、犠牲という概念である。そして犠牲というのはあまりにも狂った概念なので、正気の心はすぐさまそれを退去させる。
自分が犠牲を払うことが可能だなどと決して信じてはならない少しでも価値あるものには犠牲が存在する余地はない。もし、そうした想念が生じたなら、その想念の存在自体が、誤りが生じていて訂正の必要があることを証明している。

(『奇跡講座 ワークブック編』レッスン187/中央アート出版社)
 
 
 
テキスト第7章に、わかりやすく述べられているところがあります。
 
あなたは苦痛とは何かを認識していないのと同様に、喜びとは何かを知らず、実は、その二つを混同しがちである。聖霊の主な機能は、それらの見分け方をあなたに教えることである。あなたにとって喜ばしいことは自我にとっては苦痛であり、自分が何であるかについて混乱している間は、あなたは喜びと苦痛を混同する。この混同が、犠牲という考え全体の原因である。聖霊に従いなさい。そうすれば、あなたは自我を手放すことになる。しかし、あなたは何も犠牲にしない。それどころか、あなたは一切を得ることになる。あなたがこれを信じていたなら、葛藤はないはずである。

 
聖霊は常にあなたとあなたの強さの側についている。聖霊の導きを何らかの形で避けている間は、あなたは弱いままでいたいのである。だが、弱さとは恐ろしいものである。となれば、この決断は、あなたが恐れることを望んでいるという以外に何を意味するだろう。聖霊は決して犠牲を求めないが、自我はいつでも犠牲を求める。

(『奇跡講座 テキスト編』T-7.Ⅹ/中央アート出版社)
 
 
 
今朝目を覚ましたとき、ベッドに横になったままでふと思ったことは、「もう天国に行ってもいい」ということでした。むしろなぜ、その時を先延ばしにしてきたのだろうかと不思議な気持ちがしていました。今、行っていい。そう感じたのです。
 
起き上がって、ホーリースピリットに挨拶をしてから、続きを考えました。
今、行っていいのに、なぜ「最後の一歩」はまだなのだろうかと。
 
むろん、まだわたしが、わたしを赦していないから、神と神の子に背を向けているところがあるからです。
 
けれども、「今、行っていい」と、本当に感じられたのは初めてのことでした。
これまでは、ワンネスに戻りたい、神のみもとへ参りたい、覚醒したいと思ったことはあっても、それが「今」だと願ったことはありませんでした。「いつか」、あるいは「今世のうちには」などと思っていたのです。
 
今日のレッスンは、だからほんとうに深く響きます。
犠牲などあり得ない。幻想を、実在していないものを後にするのだから、何も犠牲にすることにはならない。
 
むしろこんなところで、あれやこれやと大事にすること——しぶとく固執することのほうが、真に大事なものを失われたまま(見えないまま)にしている、犠牲にしているのです。
 
 
よく心を見つめてみると、気づきます。
 
「今、行っていい」には、まだ、ブレーキがかかっていることに。
 
「今こそ、ゆきます」と、なぜ父に言えないのか。
 
わたしには、まだ宿題がある。そう感じます。
神に還ることへの恐怖というものは、次第に薄れてきていると感じますが、ブレーキをかけている、その力もまた感じます。
 
葛藤を放棄したいというのが、わたしの願いです。
日常という鏡を通して、残された宿題を一つ残らず片付けたい。
 
 
 
聖霊はあなたが葛藤を理解することは望まない。葛藤は無意味なので、それは理解不可能だということを、あなたにわからせたいと思っている。

 
あなたが平安を望むのであれば、あなたは葛藤という考えをそっくりそのまま、永久に、放棄しなければならない。

(『奇跡講座 テキスト編』第7章/中央アート出版社)
 
 
 
「今こそ、ゆきます」。
 
その時は決まっているのだから、安心して、たとえ繰り返される言葉となっても、毎回思いを込めて、告げたい。
 
ある意味では、もう、すでにそこにいる。
そのような、胸に愛が響き渡る、感動がありました。
 
 
 
Blessings,
 
2019.3.18
 
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
ワークブックレッスン日本語版は、
『奇跡のコース』のワークを学ぶ
ガイドブック12 創造の海へ/
香咲弥須子/ナチュラルスピリットより
引用させていただきました。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 
 
(ワークブックのレッスンでの気づきは、
4周目として取り組んでいるわたしの、
あくまでもごく個人的なものです)
 
 
 
A Course in Miracles(ア・コース・イン・ミラクルズ)には
テキスト編、ワークブック編、教師のマニュアル編があります。
日本語版は、中央アート出版、またはナチュラルスピリットから出ています。
 
ワークブックのレッスン内容の詳細については、ワークブック編をお読みください。
(こちらのブログでは詳細については記載しておりません)
 
 
 
その他のレッスン記録についてはこちら
 
 
時折配信しています◎お気軽にご登録ください