奇跡のコース』ワークブック・レッスンの気づきを綴っています
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Lesson108:与えることと受け取ることは本当にひとつです。
 

与えることと受け取ることは同じ。これはコースの根幹をなす教えの1つだと思いますが、

Lesson105
神の平和と喜びはわたしのものです。

このレッスンのときに、ケネス・ワプニックさんの本や、テキストの一部分をご紹介しました。

ワプニックさんの本で、このレッスン108について触れられています(マーカーはわたしが引いた箇所です)。

投影についての重要な側面の一つは、「私の罪悪感をあなたにあげてしまうことによって、私はその罪悪感から自由になる」というものです。私たちは、想念を与えてしまったなら、誰か別の人がそれを持つことになり、自分はもはやそれを持たないと、常に信じています。

奇跡はそれを訂正し、「私たちは、与えるものを受け取ることもする」ということを教えてくれます。というのも、私たちは皆ひとつだからです。私は本当に、この世界の中にある何かを与えているわけではないのです。ここには何もないからです。一切は私の心の中にあります。ということであれば、与えることは、実際、それを強化することとなります。もし私があなたに投影してあなたを攻撃することによって自分の罪悪感をあなたにあげてしまおうとするなら、私が実際にやっていることは、自分自身の罪悪感を強化しているということなのです。

と続き、

もし私が愛を与えるのなら、そのときに私がしていることは、私の中に愛の臨在があるという事実を強化し、さらに、その存在である聖霊がその愛を与えているという事実を強化していることになります。だからこそ、私たちが与えるものは実際には私たちが受け取るものとなるということになるのです。与えることと受け取ることは同じです。

と述べられています(『奇跡の原理―奇跡講座「50の奇跡の原理」解説―』/ケネス・ワプニック著/加藤三代子訳/中央アート出版社)。

 

このレッスンを読んでいたとき、以前、駅構内に貼られていた指名手配犯のポスターを見た後におこなった、ゆるしについて思いだしました。

大阪の駅構内を歩きながら、むろん足を止めることもなく、横目でポスターを見やりながら、わたしは4人ほど並んで映っている指名手配犯の顔写真を見て、「人相がわるい・・」と思ったことがありました。

そう思ったすぐあとで、これは「ゆるしの機会」だと、贈り物を受け取らせていただく機会なのだと感じ、ホーリースピリットに間違いを訂正してもらえるよう祈りました。

すると、心のなかでは、その4人ともが、みな「同じ」で、むろんわたしも「同じ」で、何の区別もつけようがない、ただ光そのもの、清らかさそのものだということを感じることができ、感謝の気持ちが生まれるのを感じました。

悪人は、罪人は、どこにもいないのです。

わたしはいつも、ホーリースピリットとともにゆるしをおこなうとき、感謝の思いに満たされます。しずかな喜びと、どこまでも拡がる平安と――。

 

それからどのくらいの時間が経ったのか、もう憶えていませんが、その指名手配犯の人たちのことはすっかり忘れていた、あるときのことです。自宅で瞑想をしていたら、スッとエネルギーフィールドにお越しになった方がいました。

それは、指名手配犯のポスターの右端に映っていた方で、4人のうち唯一薄っすらとではあるものの記憶に残っていた顔写真の、その人でした。

もちろん身体として認識したのではなく、何と表現したらいいのでしょうか、魂というのが最もしっくりくるかもしれませんが、確かにわたしのところにお越しになったのです。ほんの、一瞬のあいだでした。

言葉は何もありませんでしたが、あの日のわたしの心を、受け取ってくださったのだと確信しました。
「受け取ったよ」と、言ってくれたような、挨拶に来てくれた、、そんな感じだったのです。

わたしは、嬉しくなりました。受け取ってくださって、ありがとうございますと、感謝しました。

 

他人が聞けば、それって思い込みなんじゃ・・と思うような話ですが、わたしにとっては、「みなひとつ」であるということ、心はつながっている(神の子はひとり)ということを、思いださせてもらえる経験だったのです。

もしかしたら、その方は、すでに亡くなっておられるのかもしれません。

けれども、やはり、わたしたちはひとつであり、わたしたちは無罪なのです。
一度も会ったことがなくても、相手の過去が何であっても、いっさい関係がないのだと、確信しています。

ニュースで知ることになった犯罪者の人たち、バッシングされている人たち。
それを見たときは、ゆるしという訂正をおこないます。必ず、無罪であるということを、見せてもらえます。
もちろん、ホーリースピリットによって。

 

人間としてのドラマのなかで、たとえその人が罪を犯していたとしても、実はそれは、その人が罪深いのではなくて、「わたし」の罪悪感を見ているだけなのですよね。

たった一つの過ち、「分離」ということに対する罪悪感を。
ひた隠しにしている自己への憎悪と罪悪感を見なくて済む方法が「投影」だけれども、それはただ「わたし」が痛みを持ち続けるだけの方法なのでした。

 

兄弟たちの中にあなたが知覚する幻想について彼らを赦すことにより、彼らを自らの幻想に隷属することから解放しなさい。そのようにして、あなたは自分が赦されたことを学ぶだろう。なぜなら、彼らに幻想を差し出したのはあなただからである。(T-16.Ⅶ.9:5-6)

(『奇跡講座 テキスト編』/中央アート出版社)

 

今日のレッスンでは、

真実において、与えることと受け取ることはひとつです。
わたしは、今与えているものを受け取ることになります。

みんなに、わたしは静けさを差し出します。
みんなに、わたしはわたしの心の平和を差し出します。
みんなに、わたしはやさしさを差し出します。

とあります。

 

文字通り、「みんな」に、です。
自分の好きな人みんなに、ではなく。

 

あなたと同じように創造された者たち全員を尊ぶまでは、あなたは自分自身の完全無欠性を知ることができない。
(T-7.Ⅶ.6:6)

 
 
Blessings,
 
2018.8.16
 
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ワークブックレッスン日本語版は、
『奇跡のコース』のワークを学ぶ
ガイドブック4 聖なる関係②/
香咲弥須子/ナチュラルスピリットより
引用させていただきました。
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(ワークブックのレッスンでの気づきは、
4周目として取り組んでいるわたしの、
あくまでもごく個人的なものです)
 
 
 
A Course in Miracles(ア・コース・イン・ミラクルズ)には
テキスト編、ワークブック編、教師のマニュアル編があります。
日本語版は、中央アート出版、またはナチュラルスピリットから出ています。
 
ワークブックのレッスン内容の詳細については、ワークブック編をお読みください。
(こちらのブログでは詳細については記載しておりません)
 
 
 
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