『奇跡のコース』ワークブック・レッスンの気づきを綴っています
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Lesson77:わたしには奇跡を経験する資格があります。
 
 
今日のレッスンを振り返ってみたとき、確かにわたしには奇跡を経験する資格があるとは思うけれども、そんなに今日奇跡を経験しただろうか・・という思いが浮かんできました。
取り立てて、これというものがない・・と感じたのです。でも、ふと、そう言えば、「ひっくり返し」があった、しかも、そのしるしを目撃までした、ということを思いだしました。
 
わたしのなかでは、ちょっとしたことだったけれども、奇跡に「大きい」も「小さい」もないのでした。
 
長めの練習のときには、ほんとうは奇跡はいつも起こっていて、ただそれに気づいていないだけだと感じました。ただわたしが受け取れていないだけだと。四六時中経験できないということは、奇跡が見えないということは、何かしら不平不満を持っている、足りなさを見ているということ。ゆるしを選ぶ思いになっていないということ。
 
 
第1章では、
 
奇跡は自然なものである。それが起こらないときは、何か間違いが起こったのである。

と書かれており、
 
第9章ではさらに詳しく、
 
聖霊にとっては、誤りの結果は存在していない。あらゆる場所とあらゆる側面において、その結果を着実に、首尾一貫して取り消すことにより、聖霊は自我は存在しないと教え、それを証明する。
それならば、聖霊の赦しの教えに従いなさい。なぜなら、赦しが聖霊の機能であり、聖霊はそれを完璧に果たす方法を知っているからである。奇跡は自然なものであり、それが起こらないときは、何か間違いが起こったということである、と私が言ったのは、こういう意味であった。奇跡とは単に、聖霊の救済の計画とは何かを自分は理解していないと認識した上で、その計画に従う意欲があるということを示すしるしにすぎない。

 
と説明されています(『奇跡講座 テキスト編』/中央アート出版)。
 
 
「奇跡を必要とする事態」があったので、そのときもワークをしてみましたが、確かにここで「奇跡」が必要、「訂正」が必要だと感じているのに、そのいっぽうで、「でも、ここで奇跡を受け取ってもいいんだろうか。わたしなんかに」という思いがふっと出てきて、驚きました。
 
どこかでまだ、「痛み」を選んでいようとする思い、罪の意識を、自分への有罪判決を望んでいるところがあるのだと気づきました。
 
そんなものがいっさいなくなって、ほんとうにただ平安だけ、愛だけのなかに留まるということは、わたしにはふさわしくないのだと決めている冷酷さ、自己への憎悪が見え隠れします。
 
これを完全に手放さないことには、わたしの、ほんとうの救いはないし、つまり世界の救いが先延ばしになってしまう。
 
 
今日のレッスンのなかに、
 
奇跡とはけっしてひとりから取り上げてもうひとりに与えられるものではないということ、そして自分の権利を要請することでみなの権利を確認していることも思い出しなさい。
 
 
と書かれています。
 
 
毎日の、あらゆる瞬間で、奇跡を経験してゆく。
ゆるしの思いを持ち続け、すでにゆるされているということの、しるしを目撃していく。
 
神の救いの計画だけを、受け入れる。
それ以外のゴールはいっさい持たない。
 
これが、ほんとうに、、、全面的なコミットメントとなりますように。
わたしはいま、それだけを望んでいます。
 
 
Blessings,
 
2018.7.16
 
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ワークブックレッスン日本語版は、
『奇跡のコース』のワークを学ぶ
ガイドブック3 聖なる関係①/
香咲弥須子/ナチュラルスピリットより
引用させていただきました。
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(ワークブックのレッスンでの気づきは、
4周目として取り組んでいるわたしの、
あくまでもごく個人的なものです)
 
 
 
A Course in Miracles(ア・コース・イン・ミラクルズ)には
テキスト編、ワークブック編、教師のマニュアル編があります。
日本語版は、中央アート出版、またはナチュラルスピリットから出ています。
 
ワークブックのレッスン内容の詳細については、ワークブック編をお読みください。
(こちらのブログでは詳細については記載しておりません)
 
 
 
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