#053

ACIMはじめてさん向けコーナー

 

今回は、コースの学びに関して
書いてみたいと思います。

なおご紹介くださる場合は、このページのリンクを
お知らせいただけましたらと存じます。
(本文のコピーはできません)


(奇跡のコース/奇跡講座ってなんですか?)

 

コースの学びは、苦しみながら続ける、
というような
厳しい修行のようなものではありません。

「苦しんでこそ学べる」というのは、
自我(ego)が大好きな考えです。

自我には、柔和さなど、知る由もないのだから。

 

苦痛を通して学ぶ必要はない。2柔和なレッスンは楽しく習得され、喜んで記憶される。

T-21.I.3:1,2/『奇跡講座 上巻』
中央アート出版社
 

イエスがはっきりと、
「苦痛を通して学ぶ必要はない」と言っています。
楽しく習得されるものだと言ってくれています。

テキストを読んだことがあるなら、
「コースの学びは苦しんでこそ」などと
勘違いしないはずです。

 

5聖霊のカリキュラムは決して重苦しいものではない。なぜなら、それは喜びのカリキュラムだからである。6学習への反応が重苦しさであるときはいつでも、カリキュラムの真のゴールが見失われてしまったことに原因がある。

T-8.VII.8:5,6

喜びの反対は重苦しさである。2あなたの学びが喜びではなく重苦しさを助長しているとき、あなたは神の喜びに満ちた教師に耳を傾けてそのレッスンを学ぶことをしていないに違いない。

T-8.VII.13:1,2
 

学びが苦しいと感じるとしたら、
神の喜びに満ちた教師(聖霊)ではなく
神に張り合っている教師(自我)に
耳を傾けているからです。

真に聖霊のカリキュラムを学んでいるなら
重苦しさなど感じません。

柔和なレッスンは楽しく習得され、
喜んで記憶されます。

 

コースの学びは楽しいものです。
ゆるしは幸せへの鍵だとイエスは言っています。

幸せへの鍵を真に受け取る学びが
どうして、楽しくないもの、
苦しいものになるでしょうか。

もし、コースの学びは苦しいものだと
勘違いしているのだとしたら、

*苦痛と喜びの混同
*幸せとはどういうもののことか

この2つについて、テキストで明確に
述べられていますから、
まずテキストを読むところから
始めてみるとよいかもしれません。

テキストを読まずに、ワークブックの
レッスンだけやっているとしたら、
様々な勘違いを抱えたままになってしまい、

学びが一向に深まらない、ということが
起きてしまうかもしれません。

 

最初は、取り組みやすいワークブックから
スタートされる方が多いようですが、

できれば、少しずつでもいいので
テキストを読み進めながら同時進行で
レッスンに取り組むことをお勧めします。
(ジョン・マンディさんもおっしゃっていました)

 

コースの学びを続けていると、
つまり<実践>していると
人々とのあたたかな交流が増えます。

心は繋がっているんだ、という喜びの
美しい経験が増えていきます。

これを楽しくないと思うなんて
信じられません。笑

誰もが兄弟、心のフレンズで、
みんなありがとうと、心から感謝することが
たくさん増えていきます。

いちいち苛立ったり、いちいち比較したり
いちいち落ち込んだり心配したり
焦ったり、コントロールしたがったり・・
などということが、どんどん減っていきます。

闘うのではなく、祝福する心が
蘇ってくるからです。

 

コースの学びは、情報を多くゲットしたり
ACIM博士、ACIMパトロール隊になることではなく
(これは明らかに「逆」を行ってますよね、)

コースの学びは、<ゆるし>、これのみです。
(まず、自分の知覚の端から端まで全部間違っていると認識すること)

テキストを一度でも読んだことがあるなら
これは当然のことだと、はっきりしているはずです。
 

暗い考えを隠さず、内なるガイドである聖霊、
ホーリースピリット(もしくはイエス)に差し出し
取り消してもらい(すでに訂正されていることを受け入れ)

入れ替えられているヴィジョンを受け取ること、
(それが真のゆるしであれば必ずこれがわかります)

これだけです。これが<実践>です。
 

これの、どこが、「苦しい」のでしょう。笑♡
清々しいではないですか。

自分のものの見方が完全に間違っていただけ、
本当はこんなにも麗しい光があるばかりだった・・
愛されている、祝福されているのみだった・・

そのように知れることの、何が、「苦しい」?

これが幸せでなくて、何なのでしょう。

 

よほど、「自分こそ正しい!」と
主張していたいのでない限り、
ゆるしは難しいことでも、
苦しいことでもないのです。

もし、自分こそ正しい!と叫んでいるなら
コースの学びは苦しいと感じることでしょう。

神に張り合う心は、むろん、疲弊します。
神と競争する心は、人々とも競争しており、
それゆえに、疲れ、苦しみます。

これは、当たり前のことです。

何とも闘わない心は、非常に静かです。
神と張り合わないので、愛を経験します。
人々と競争していないので、疲れることはありません。

 

わたしたちは、これまでずっと、
<蘇り>を受け入れるそのときを
先延ばしにしてきました。

誰もが光そのものです。
誰もが愛の存在です。

神と同じように、ただ永遠に愛を放射しています。
肉体などではなく、永遠のスピリットです。

わたしたちは聖なる心そのものです。
個人など、あり得ないものです。

真の自己の蘇りを、いつ、受け入れるのか——。
 

ゆるしは、その訪れを早める方法、
本当の<解決法>、唯一の<治療法>なのです。

蘇ってたまるか!と思う心だけが、
ゆるしを苦しいものに仕立て上げるのです。

神と張り合うことをやめたら、
何とも闘わない心を思い出せば、
ゆるしこそ選びたいと思えるようになります。

ゆるし以外に、何もないからです・・♡
 

蘇りに心を少しずつ開いていきましょう。
心の蓮の花びらを、一枚一枚、開きましょう。

防御しなくなればなるほど、
真の豊かさを受け取れるようになります。

学ぶことは楽しいことだと、わかるようになります。
苦しみ好きの自我の声に、耳を貸さなくなります。

誰もが真に美しい存在だということを
どんどん受け取っていける道だというのに、
これを苦しいなどと思うはずがありません。

苦しいと思うとしたら、花びらを閉じているからです。
張り合うことをやめましょう。
意地張ってないで、素直になりましょう。

世界に、人々に、心を閉ざすことをやめて
ホーリースピリットに助けてもらいながら、
そっとゆっくり・・開いてみましょう。

どんなに愛されることでしょう・・・!
 

大いに愛されてください。
大いに助けてもらいましょう。

大いに迷惑をかけて、
大いに失敗して、
大いに恥をかいて生きましょう。

個人のプライドなど、
なんの宝になるというのでしょう。

どうでもいいではないですか。

 
「どうしようもないこの個人」を
まったく防御していない瞬間に、
“聖なる瞬間”を経験できます。

個人が消え去っている瞬間です。

個人などというものを
遥かに超えた存在だということを
みんなとひとつの大いなる光だということを
真に受け取っている瞬間です。

これが喜びでなくて何ですか?

この道は、本当に、楽しい道です。

 

誰かが真のゆるしを心に決めたとき、
誰かが真の祈りを捧げているとき、
誰かが聖なる瞬間を経験しているとき、

それは間違いなく<延長>されています。

わたしたちは世界のどこかの誰かの
真の祈りに、真のゆるしに助けられています。

わたしたちが真に祈っているとき、
ゆるしを決断して、贈り物を受け取っているとき
どんなに与えていることか・・・・。

“与えることと受け取ることは同じ”という、
この素晴らしいコースの教えを
みなさんと一緒に学べること自体が、
わたしにとって喜びであり、幸せです・・♡

誰かの奇跡は、みんなの奇跡。
誰かのゆるしは、みんなの癒し。

共に支え合い、助け合い、
同じゴールを分かち合っていることに、
奇跡の連続に、心から感謝します。

 

3愛はこんなにも喜んで導いている!4キリストの後について行くうちに、あなたはキリストという仲間を見出し、彼から楽しい帰郷の旅について学んだことを喜ぶようになるだろう。

T-13.VII.6:3,4

 

これは、<楽しい帰郷の旅>なのです。

共に楽しみましょう!
喜びを分かち合って進みましょう♡

すべてのフレンズへ・・

Blessings,

 
2023.10.14配信
 

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