電車の座席に座っている親子がいました。

母親は眉根を寄せて、携帯電話の画面を凝視しながら素早く指を動かし、
メールか何かの返信を書いているようです。

3歳くらいでしょうか、母親にぴったり体をつけて静かに座っている男の子が、
突然こんなことを言いました。

「ママぁ~?いのちとからだ、どっちがだいじ?」

「何言ってるの、おんなじでしょ?」

「ママ、いのちとからだ、どっちがだいじ?」

「ママは忙しいの。ほら、今これをしてるでしょ?」

 

わたしはこの質問をした男の子に、非常に興味を持ちました。
急に母親に「いのちとからだ」のどっちが大事だと思うのかについてどうして尋ねたのか、
彼に聞いてみたい誘惑にかられながら――「どっち」と尋ねたということは、
彼は「いのち」と「からだ」を別なものだと考えているのでしょうから、それぞれをどう捉えているのか
聞きたくてたまらない、そんな気持ちだったのです――右隣にいる、小さな哲学者さんを見守っていました。

彼はなおも質問を続けます。

「じゃあ、ケータイとぼくと、どっちがだいじ?」

「それは、○○くんよ」

さっきまで苛立ちを隠さずに返事をしていた母親が、ここでやっと息子の顔を見て、優しい声でそう答えました。
この質問の意味については、わかったようです。

そのあと二人は、何やら楽しそうに話をしていました。

 

あたたかな気持ちになりながらも、わたしは小さな哲学者さんの問いが気になってしかたがありません。

いのちと、からだ。
母親の言ったように、同じなのでしょうか。

肉体が死を迎えたら、いのちはどうなるのでしょう。
いのちに「死」はあるのでしょうか。

 

 

彼が何を言いたかったのかはわかりませんが、
きっと母親に、「からだ」や「モノ」を重んじるのではなくて、
「いのち」を、心と心のつながりを――お母さんと「ひとつ」であることを――感じたいのだと
伝えたかったのではないでしょうか。

いまこうして電車の中で、隣り合って座っているこの時間を、「からだ」の時間にしてしまわずに、
「いのち」を感じあう時間にしたかったのかもしれません。

彼に聞いてみないことには、
わからないけれども――。

 

 

それでもわたしは、彼に学んだ気がするのです。

わたしのなかでは、もちろん「いのち」と「からだ」は別なもので――肉体に死はあっても、
いのちに死はないということを、はっきりと知らされた経験を何度もしています――、
それをわかっていたように思っていましたが、

「いのち」を忘れて、「からだ」に没頭してはいなかったかしらと、
反省せずにはいられませんでした。

この身体を自分だと思い込んで、大事なことを見失ってはいなかったかと。

 

随分前の出来事でしたけれど、こうしてふと思い返してみても、やはり考えさせられます。

「からだ」の時間を生きるのではなく、関わるひとびとと、
「いのち」を感じ合う瞬間、瞬間を生きていたいと思います。
心をひとつにする瞬間を――たったひとつである心をともに思いだす瞬間を。

外側にばかり注目して、心を置き去りにしませんように。
目の前のひとを、「からだ」だと見ることをやめられますように。

 

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ありがとうございます

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