その日は珍しく、寝ずに起きていました。

やることがあったので、東京行きの新幹線の中でそれを終えたあと、
なにげなく窓の外を見ました。

どこを走っているのかわかりませんでしたが、

「もしかしたら、今日は見られるんじゃないか」

そう思ったわたしは、しばらくの間、外の景色をぼんやり眺めながら
待ってみることにしました。

 

どのくらい経ったでしょうか、しばらくすると、
思ったとおり、やはりそれは現れました。

目にするのは随分久しぶりです。
毎月東京へは行っていますが、静岡のあたりを通る頃には
いつもぐっすり眠ってしまうので、見ることがかなわなかったのです。

 

富士――。

その存在感に見惚れながらも、「鈍角も鈍角、のろくさと拡がり」という、
太宰の『富嶽百景』での描写を思いだし、たしかに鈍角で、
「低い。裾のひろがつてゐる割に、低い」その富士を見、

せっかくこうして見ることができたのだからと、携帯電話をバッグから取りだして、
数枚写真を撮っていたら、

隣に座っていた中年の女性が、「これでも、撮ってもらえますか」と言って
デジタルカメラをわたしに差し出しました。

わたしは「ええ」と答えてカメラを受け取り、
どっしりとした富士にカメラを向け――実際に見ているそれより
存在感がなく感じられるのを少し残念に思い、
なるべく美しく映ってくれたらいいなと思いながら――数枚撮って、カメラを返すと、

「ありがとう、見る機会がほとんどないから」と、
柔らかく、小さめの声でそう言って、その女性はカメラの中の富士を見ていました。

 

この日のわたしのやるべきことというのは、祈りでした。
複数の人たちと同時刻から一斉に、同じ祈りをとなえるというワークをすることになっていたのです。
それで、起きていたのでした。

その祈りは、わたしたちがひとつであることを思いだすための祈りであり、
惜しみなく愛を与え受け取ることへのコミットとなる祈りでした。

それをゆっくり繰り返して祈った、そのあとの出来事だったのです。

 

むかしのわたしは、知らない人と話をすることを苦手に思っていたけれど、
こんなふうにつながる機会のあることを、とてもうれしいと感じられるようになりました。

偶然(!)隣に座ったその女性と言葉はほとんど交わしていなけれども、
心のつながりを感じることができ、
わたしの心は感謝とあたたかな喜びに満ちていました。

 

ふたりで見た富士は、どの富士よりも、それは美しい富士でした。

 

 

最後までお読みくださり
ありがとうございます

Blessings,

 

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