喉の調子がおかしかったので、エアコンのつけっぱなしのせいだと思ったわたしは、しばらくは普段通り過ごしていたのですが、咳が出るようになり、体が重く感じるようになってしまったので、どうやら風邪を引いたらしいと考え、抽斗にしまってあった風邪薬を出して飲みました。

わたしの体調が良くないのは、本当はエアコンのつけっぱなしのせいでも、風邪を引いたからでもないのであって、肉体の病というのは魔術への信仰を象徴しているのだということ*1を思いだし、心の誤りを訂正するよりほかにないのだと思うのだけれども、そのときのわたしの自然な感覚で、風邪薬を飲むことにしました。

それは粉薬で、包みを開いて口に入れるものなのですが、紙を左右に開きながら、訂正のために薬剤を使用することがだめなわけでもない*2ということも思いだしつつ、けれどもこの機会を、自分の行為を正当化するのではなく(風邪薬そのものに力を見るのではなく)、本当の癒しの機会としたい(心の本当の力を思いだしたい)と感じたわたしは、そのことを祈ってから粉薬を口に入れました。

すると、すぐに、「まだまだ足りない」と自分を責めている思いがあることに気づきました。自罰的な考えがわたし自身を鞭打っていることに。愛されているのに、真に深く受け入れていないのだということに気づいたと同時に、ふんわりとやさしい、あたたかなものがわたしを包み込んでいるような感覚がありました。もうすでに、ゆるされている、という感覚が。

何も探さなくていい。何も追わなくていい。個人的な目標などひとつも持たなくていい。
そのような気持ち――深い安心感とあたたかなもの――が心にひろがっていきました。

自罰的な考えは手放して、心にしか力がないということを、ずっと恩寵の状態にあるということを、そしてスピリットとしてわたしたちは完璧だという真実を、忘れずにいたいとおもいます。

Blessings,

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*1…テキスト第2章.Ⅳ.2:7
*2…テキスト第2章.Ⅳ.4:4

 

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