20代の頃、教師をしながら、週末の休みの日に心理カウンセラーの養成スクールに通っていました。

担任をもっていたわけではありませんでしたが、22歳のとき、現代文の授業を受け持っていたクラスのある女子生徒がいじめで不登校になり、最終的に転校したことがきっかけでした。

学校で働くなら、心のケアについても学んでおきたい、生徒にいいかげんな対応をしたくない、本当に寄り添ってサポートできるようになりたいと思ったからです。

そこは民間のスクールだったのですが、講座を受講し、実践トレーニングも受け、筆記試験と、リスニングのテストに合格しました。いつしかわたしは、本格的に学ぶようになっていて、進めるところまで(プロレベルまで)進もうと思っていました。

次は「現場研修」ですが、そこのスクールではまず、講師のアシスタントをするところからやっていくことになっていました。

“心理カウンセラーになりたいならまずプロの講師の、講座アシスタントから”

そこでやることは、講座のために床やトイレを掃除し、机と椅子を並べ、教材の準備をして、印刷物を1人分ずつホッチキスで留め、講師のお茶を淹れ、空調を気にかけ、ワークで涙された方がいればそっとティッシュを差し出したり、グループシェアの時間は各グループの様子を見てまわっていくことをするのですが、基本的には教室の後ろで座っている時間のほうが多くありました。

先生方が、プロの心理カウンセラーになりたいなら、まずここからだとおっしゃっていたので、わたしは言われた通り、素直にそれをやっていましたが、一緒にアシスタント(研修)に入った人たちは次々にやめていきました。まったくスクールに来なくなる人がたくさんいました。

「わたしは掃除とか、雑用をしに来てるんじゃない。わたしは心理カウンセラーになりたいのに」と言って、やめるのです。言いたいことはわかるけれど、わたしにはわからないなと思っていました。

プロとしてカウンセリングをされている先生が、「これが必要」と述べたのだから、その意味がわかるまでわたしは続けるべきなんじゃないかと考えていたのです。プロの心理カウンセラーになっていないわたしが、「これは不要」と判断できるはずがない、と。

掃除をしたり、ティッシュを差し出したり、空調を管理すること、A4用紙の左隅をホッチキスで留めていくこと、そうした1つ1つの意図や目的を考えるように、と、先生方はおっしゃっていました。

わたしはトイレ掃除をしながら、「わたしは何のためにこれをしているのか?」と問いながら取り組んでみました。机を島の形に並べるときも、セラピーで使うクレヨンをどこに置くかを考えるときも。

何のために?

こうした行為と、心理カウンセリングがどう繋がっているのか、わかるまで続けようと思い、どんどん周りがやめていく中で、わたしは毎月その「研修」に参加していました。

研修の日だけでなく、何か思いついて行動しかけたとき、ふと出てくるのは「何のために?」という問いになり、行動だけでなく、発言についても、何か言おうとしたときに、口に出す前に「何のために?」と一瞬考えて、それがたとえば自分を防衛するためであれば、それをしない、それを言わない、ということをやるようになりました。

また、研修中は、受講生さんたちの言外のメッセージに気づけるようになったり、言葉がけのタイミング、間(ま)をとる重要性などもわかるようになっていきました。

間(あいだ)を随分省略して書きますが、日々自主的に学ぶ姿勢を持ち続けることによって、そのスクールのセラピーを担当させてもらえるようになったり、泊まりがけのグループセッション(リトリート)のカウンセリング、セラピーも担当させてもらえるようになりました。心理カウンセリングに必要なスキルが身についていたからです。

 

もちろん、自慢話をしているわけではなくて、コースを学ぶことにおいても、同じことが言えるのではないかと思ってシェアしています。

イエスは、わたしたちが最終的には夢から目を覚ますことができるように、まずは地上において平安に至れるよう(ゆるしを完全に受け入れられるように)、テキスト、ワークブック、マニュアルを用意してくれました。コースのゴールは、幸せと平安だとテキストに書かれています。

ワークブックは、テキストの理論を実践できるように与えられたものであり、各レッスンに具体的な指示(ワーク)が記されています。

書かれていることには、受け入れがたい/信じがたい内容もあり、抵抗しましたが、イエスが必要だと言ったなら、重要だと言ったなら、——覚醒していない自分が「これは不要」と判断できるはずがないので——やっぱり素直にその通りにしてみることが大切だと思っています。

言われた通りにやってみる。わかるようになる、その時まで。

 

テキストを読むときも、書かれていることが確かかどうか自分が判断できると思って読むのではなく、何もわからないということを認めて読んでいく教えに心を開く

こんなことをしても意味がない。コースは「ゆるし」「ゆるし」って言うけど、そんなことよりわたしが幸せになるためには、健康な体で、貯金もあって、安心できるように、いろんなことをしなくちゃいけないんじゃないの?

そう言って、やめていく・・・としたら、「わたしはわかってる」「わたしは判断できる」と思っているとしたら、本当に幸せになれるのでしょうか

 

コースを学ぶのは、何のため?

わたしは最終ゴールに到達している?

到達している存在が教えてくれていることに心を開いている?

 

もし気持ちがあやふやになったら、自分に問いかけてみてもいいかもしれません。
幸せを望むのであれば、イエスを、ホーリースピリットを信頼してみる。学習を、実践を続けてみる。

そうすると・・確かに、安らぎや喜びが満ちて、奇跡が続いて、日々感謝できるようになります。
素直がいちばん。そう感じます。

 

素直になれない!というときがあれば、そういうときの自分にも、どうぞ優しくあってくださいね。
愛は逃げていったりしません。ホーリースピリットは見捨てたりしません。

ホーリースピリットは、ずっと、待ってくれています。

Blessings,

 

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