『奇跡のコース』ワークブック・レッスンの気づきを綴っています
Lesson4:これらの思いは、何の意味ももっていません。
これらの思いは、何の意味ももっていません。
それは、<この部屋に/この通りに/この窓から/この場所に>
わたしが見ているものと同じです。
よくよく観察してみると、この日浮かんでくる思いには
自分を責める思いが多かったような気がします。
自分を責める思いが多かったような気がします。
自分の、勝手な思いというのは、基本的にジャッジであって、
たとえば「今日は天気がいいな」という思いにしても、
「良い」という判断をしている。
たとえば「今日は天気がいいな」という思いにしても、
「良い」という判断をしている。
これが雨だったら、「今日は天気がいいな」とはならないし
雨ならどこかで――わたしは雨は雨で好きだけれども――「なんだ、雨か」と
思ってしまうのだろうとおもいます。
雨ならどこかで――わたしは雨は雨で好きだけれども――「なんだ、雨か」と
思ってしまうのだろうとおもいます。
思ったことがジャッジになっている、のではなくて
ジャッジするために思っている(思考している)ようなものだと、
一日中の思考を観察してみてそう感じました。
(わたしがこのワークブックのレッスンに取り組むのは4周目です)
ジャッジするために思っている(思考している)ようなものだと、
一日中の思考を観察してみてそう感じました。
(わたしがこのワークブックのレッスンに取り組むのは4周目です)
まるで「ジャッジ」が生きる糧のような。
むろん、自我(エゴ)にとって。
むろん、自我(エゴ)にとって。
空を見ても、ニュースを見ても
どうでもいい思いが浮かんできて、その全部が
何らかのジャッジ、勝手な判断になっていて。
どうでもいい思いが浮かんできて、その全部が
何らかのジャッジ、勝手な判断になっていて。
どうしてジャッジしているんだろうかと考えてみたのですが、
やはり、「怖がっているから」だろうとおもいます。
やはり、「怖がっているから」だろうとおもいます。

何の意味ももっていない。この部屋に見えるものと同じ。
そのように当てはめて眺めてみたときに、ふと、
「これをつくったのは、わたしなんだ」という感覚がありました。
「これをつくったのは、わたしなんだ」という感覚がありました。
何を見ても、何もないような感じ、夢を見ているような。
少し奇妙な感覚でした。
少し奇妙な感覚でした。
わたしの勝手な思いでつくった世界、
でっち上げたもの、という感覚。
でっち上げたもの、という感覚。
――もう祈ること以外に、できることはない。
どうでもよい、意味のない思いという思いが
出てくるたびにできることは、祈ることだけだと
しみじみおもいました。
出てくるたびにできることは、祈ることだけだと
しみじみおもいました。
ホーリースピリットの目には
どのように見えているのか、それを見たい。
どのように見えているのか、それを見たい。
そのような気持ちで見ていると、
何を見ても、ただ受け取らせていただく感覚、
「ありがとうございます」と、感謝する思いに変わります。
何を見ても、ただ受け取らせていただく感覚、
「ありがとうございます」と、感謝する思いに変わります。
「自分」だけでは、どうしようもない思いしか
浮かんでこないのだから、
わたしには、確かに、助けが必要なのです。
浮かんでこないのだから、
わたしには、確かに、助けが必要なのです。
エゴを教師とするか、
ホーリースピリットを教師とするか。
ホーリースピリットを教師とするか。
もちろんわたしは、
内なる教師、ホーリースピリットに
したがっていきたいとおもいます。
内なる教師、ホーリースピリットに
したがっていきたいとおもいます。
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