『奇跡のコース』ワークブック・レッスンの気づきを綴っています
Lesson3:見えるものを、わたしは理解していません。
モノに対してこれを当てはめて
最初に気づくことは、昨日のレッスンとつながっていて、
まずどこかでそのモノの機能、有用性を見ている(判断している)ということです。
最初に気づくことは、昨日のレッスンとつながっていて、
まずどこかでそのモノの機能、有用性を見ている(判断している)ということです。
どういうふうに使えるものなのか、
どのくらい重要性があるのか、役立つものなのか、
気に入っているのかどうか。
どのくらい重要性があるのか、役立つものなのか、
気に入っているのかどうか。
あるいは、「誰の」ものなのか。
良いのか悪いのか。きれいなのか汚いのか。
良いのか悪いのか。きれいなのか汚いのか。
保存しておくべきか、捨てるべきか。
何度も見たいものなのか、目障りだと感じているものなのか。
何度も見たいものなのか、目障りだと感じているものなのか。
とくにどうでもよいと思えるものに対しても、
何かしら思っていることに気づきます。
何かしら思っていることに気づきます。
それがいったい何で、何のためのものなのか、など。
人に対してはどうかと言うと、
「この人はこういう人」という思いがあることに
気づきます。
「この人はこういう人」という思いがあることに
気づきます。
ワークブックに書いていある通り、確かに
「過去と連結し過去の判断でいっぱいになっている」。
「過去と連結し過去の判断でいっぱいになっている」。
昨日気づいたことに、
「多少なりとも人に何らかの期待を持っている」
というものがありましたが、
「多少なりとも人に何らかの期待を持っている」
というものがありましたが、
モノに対して有用性があるかどうかを
見ているのと同じように、
見ているのと同じように、
どこか人に対しても
そのような目線があるように思いました。
そのような目線があるように思いました。
わたしは、「いい人」になりたいわけではないので、
自分の思いのなかを隈なくチェックして見えたことを
ここにオープンにして書いているのですが、
自分の思いのなかを隈なくチェックして見えたことを
ここにオープンにして書いているのですが、
やはりこの、どこか汚い部分――相手はわたしにとって
良い人なのかどうか/自分を受け入れてくれているかどうかを
判断しようとしている部分――が
少なからずあることを否定できません。
良い人なのかどうか/自分を受け入れてくれているかどうかを
判断しようとしている部分――が
少なからずあることを否定できません。
好もしいと感じるか、苦手だと感じるか。
素敵な人だと感じるか、なんだかなぁと感じるか。
素敵な人だと感じるか、なんだかなぁと感じるか。
尊敬に値すると思えるか、おいおい勘弁してよと思ってしまうか。
言葉は何でもいいのですが、
結局のところどれも同じで、簡潔に言えば
モノと同じように、人に対しても「損得」で見ている目、
「良し悪し」を判断している目があるということです。
結局のところどれも同じで、簡潔に言えば
モノと同じように、人に対しても「損得」で見ている目、
「良し悪し」を判断している目があるということです。
たとえそれが「微か」であったとしても、
そのような視点を持っていることに違いないのです。
そのような視点を持っていることに違いないのです。
そうでなければ、普段の思考、発言のなかに
「あの人は本当に素敵な人よね」というような、
「あの人は」と区別する思い、言葉は出てこないはずです。
「あの人は本当に素敵な人よね」というような、
「あの人は」と区別する思い、言葉は出てこないはずです。
誰かを好もしいと感じるということは、
誰かをそうでないと感じているという証拠なのでは?
誰かをそうでないと感じているという証拠なのでは?
事実、残忍な人、たとえば犯罪者に対して
わたしは好感を持てません。
わたしは好感を持てません。
好感を持てるかどうかの違いは何か。
自分のなかに何らかの基準があるはずです。
自分のなかに何らかの基準があるはずです。
その基準は何か――。
やはりそれは「過去」に関係しているのでしょう。
何をしたか/してこなかったか、
行いにおいて判断している部分があるでしょうし、
行いにおいて判断している部分があるでしょうし、
たとえば初対面の人を「生理的に」受けつけられないとしても、
これも過去の何かに関わっているはずです。
これも過去の何かに関わっているはずです。
記憶の有無にかかわらず。
それにしても、どうしてモノや人に対して、
自分にメリットがあるかどうかを考えてしまうのでしょうか。
自分にメリットがあるかどうかを考えてしまうのでしょうか。
そのように見てしまう理由は、
自分がひどく怖がっているからだと思います。
自分がひどく怖がっているからだと思います。
身構える必要性があるかどうかを常に気にしている、
防御すべきかどうかを判断しようとしている。
防御すべきかどうかを判断しようとしている。
ハサミを見て、「これはハサミ」と
ただ思っているわけではないとおもうのです。
ただ思っているわけではないとおもうのです。
紙を切るもの、気をつけないと少し危ないもの。
機能や有用性を見ているし、
自分にとって害があるかないかを判断しているところがある。
自分にとって害があるかないかを判断しているところがある。
そのような判断のもとになっているものは、
やはり「過去」。
やはり「過去」。
それを、その人を、
わたしは理解していないのだと心のうちで
言ってみると、
わたしは理解していないのだと心のうちで
言ってみると、
心の扉が開くような感覚になります。
さっき述べたように、
身構える必要性があるかどうか、
自分にとって安全かどうか、役立つのかどうか、
そのような視点を手放すことにつながるからかもしれません。
身構える必要性があるかどうか、
自分にとって安全かどうか、役立つのかどうか、
そのような視点を手放すことにつながるからかもしれません。
防御しない心に、戻れるような気がします。
わたし=この身体という考えを
さらに手放していけるように感じます。
さらに手放していけるように感じます。
「好もしい」を超えて、
「いけすかない」を超えて、
その人の、ほんとうのすがたを見たいですし、
「いけすかない」を超えて、
その人の、ほんとうのすがたを見たいですし、
見間違いをしたと気づいたときは
いつも祈り、「ゆるし」をおこなっています。
いつも祈り、「ゆるし」をおこなっています。
テレビを通して見る犯罪者に対しても。
駅構内に貼られたポスターの、指名手配犯に対しても。
駅構内に貼られたポスターの、指名手配犯に対しても。
わたしが見えていないだけのことなのです。
わたしが勝手に決めつけたことなのです。
わたしが勝手に決めつけたことなのです。
わたしは何もわかっていない。
少しも理解していない。
少しも理解していない。
どうぞ、受け取らせてください。
そのような思いになるとき、
いつも同じものを受け取らせていただけます。
いつも同じものを受け取らせていただけます。
モノからも、人からも、
受け取らせてもらえる、感謝の思いにあふれる、
その経験を重ねていきたいです。
受け取らせてもらえる、感謝の思いにあふれる、
その経験を重ねていきたいです。
こころの眼を、完全に開きたいです。
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ワークブックレッスン日本語版は、
『奇跡のコース』のワークを学ぶ
ガイドブック1 わたしは何も知らない/
香咲弥須子/ナチュラルスピリットより
引用させていただきました。
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『奇跡のコース』のワークを学ぶ
ガイドブック1 わたしは何も知らない/
香咲弥須子/ナチュラルスピリットより
引用させていただきました。
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(ワークブックのレッスンでの気づきは、
あくまでもごく個人的なものです)
あくまでもごく個人的なものです)
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