#047

ACIMはじめてさん向けコーナー

 

今回は、真の自己、神聖性について
書いてみたいと思います。

なおご紹介くださる場合は、このページのリンクを
お知らせいただけましたらと存じます。
(本文のコピーはできません)

小学生の頃に観た
ディズニー映画の「ピーターパン」。

ストーリーはすっかり忘れてしまいましたが、
ウェンディが苦手だったことを
ふと思い出したときがありました。

 
ウェンディは3人姉弟の1番上、長女です。

弟のジョン、マイケルがいて、
とても優しい女の子。

・・・苦手だったのです。笑

 
わたしはティンカーベルの
直情的なところが好きでした。
むき出しな感じが。

こっちのほうがいい。
小学生のわたしはそんなふうに感じていました。

ティンカーベルの残酷な一面を見たときは、
悲しくなってしまいましたが。

  
ウェンディの、どこが苦手かと言うと、
(もうよく思い出せませんが)

なんだか完璧な感じがするところ、
面倒見がよく、優しいところです。
 

今になって思えば、
同じ長女で、弟と妹がいる自分と
ウェンディとを比較して、

自己中心的な自分のひどさを
感じずにはいられなかったからで、

ウェンディはなんだか嘘くさい、
いい子ぶっている感じがして嫌、
などとジャッジし、

なんとか自分を守ろうとしていたのです。

   
小学生の心の中で起きていたことですが、
なんだかシンボリックだなと思います。

自分のことを有罪だと信じていて、
罪悪感、自己否定感、欠乏感を抱いている。

非の打ち所がないような、
いわゆる優等生や、人気者といった人がいると、

その輝きを心から祝福すればいいのに
自分のダメさが目立ってしまうような気がして
不快に思ってしまう。

素晴らしい人の存在が、
自分の存在を否定しているかのように
感じられてしまう。
 

嫉妬という感情は、わかりやすいですね。

本当は、ウェンディのようでありたい。
ごく自然に優しくあれる自分でいたい。
内なる聖性を、そのまま表現したい。

でも、そんなの、こんな自分にはできない。
そもそもこんな醜いわたしの中には、
ウェンディみたいな光は、ない。

だから、ウェンディは苦手。きらい。

 

誰もがほんとうは、
内なる聖性が放たれるがままにしておきたい。

愛を分かち合いたい、
隠さず純粋に表現したい。

真に助けとなりたい。
繋がりの喜びを感じたい。

でも、こんな汚れた自分には、
こんな劣った自分には、
こんな欠けている自分には、
できるわけがない。

 
そうやって、真の自己の美しさを、
神聖性を否定し、拒絶して、

勝手に思い描いている自分像のひどさを
大事にしていようとする。

・・・なんだか、笑っちゃいますね^^

  
ウェンディみたいに「なろう」としても
なれないでしょうけれど、

ウェンディのように素直でいれば、
(内なるガイドHoly Spiritに委ねれば)

飾ったり、演技したりするのとは違って、
無理なくごく自然に
内なる聖性、静けさ、慈しみの心を
そのまま表現することになるのですよね。

本心に従うだけなのです。
 

憧れの人の、形を真似っこしようとしても
まずうまくいかないでしょうけれど、
(それはただの演技だからです)

その人と全く同じ清らかさが
自分の内にもあるのだと素直に受け入れたら、

ホーリースピリットが、自分の個性さえも
奇跡の道具、分かち合いの道具として
使ってくれて、

ごく自然な形(流れ)で
分かち合えることになるのだと思います。
 

その憧れの人と、形態のレベルでは
表し方が違っているかもしれませんが、

内容のレベルにおいては
何も違わないということが受け取れるでしょう。

なぜなら、わたしたちはみな同じ
真に対等な、聖なる神の子なのですから・・♡

優劣はないのです。
上下はないのです。

嫉妬しなくてもいいのです。
自己卑下の罠に陥らなくていいのです。

 
 
今なら、言えます。

ウェンディ、わたしに聖性を見せてれて
ほんとうにありがとう。

あなたの中にある光は、
わたしの内にもあるのだと受け入れます。

同じであることを教えてくれて、
ほんとうにありがとう。

 

Blessings,

 

2022/10/15配信
©️2022 Sueyoshi Ai

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