2024年、とても興味深くてあたたかな奇跡を経験するところからスタートしました。“奇跡に難しさの序列はない”というのは、やはり本当のことだと感じます。

これが “本当のこと” だからこそ、自分の人生の中で直接的に経験することだけでなく、いま世の中で起きていることについても同じように、A Course in Miraclesで述べられている意味での“奇跡”を、誰もが経験しなくてはならない——何ひとつ例外にすることはできない——とも感じています。

わたしたちは、“神の愛によって支えられている”のだし、わたしたちの“聖性にできないことは何もない”のです。ヴィジョンという、“神からの贈り物”を受け取らずに、この地でいったい何をするというのでしょう。
 

コースの学習を継続してきて12年目になり、ワークブックが何巡目かなど忘れてしまいましたが(カウントする気持ち自体がもうないのです 笑)、2024年はこれまでよりも<本気>で取り組もうと感じ(これは12月のおたよりで少し触れました)、取り組み自体をイエスに委ねていたら、年末にいくつか閃いたことがあったので、その通りに実践してみています(その方法は今日、X:旧Twitterでチラッとだけですがご紹介しました)。

年末あたりからわたしが感じていたことは、ワークブックレッスンで言えばこの箇所と符合します。

7.だから、ただ次のようにしなさい。静かになり、自分とは何か、神とは何か、といったすべての想念、これまで学んできたこの世界についての一切の概念、自分について抱いているあらゆるイメージを脇に置く。2あなたの心が、真実だとか偽りだとか、よいとか悪いとか思っているすべてのもの、価値があると判断する想念、あるいは恥じているすべての概念を取り去り、あなたの心を空にしなさい。3どんなものにもしがみつかないようにする。4過去が教えた想念も、以前あなたが何かから学んだ信念も、いっさい持ち込まないようにする。5この世界を忘れ、このコースを忘れ、両手をまったく空にして、あなたの神のもとに来なさい。

W-pI.189.7/『奇跡講座 下巻』/中央アート出版社

 

自己流ではなく、イエスに委ね、導きに従うという姿勢で10年ほどの歳月をコース学習に捧げていたら、当然のことながら、コースのあちこちを、全く暗記しようとしていなくても自然と覚えてしまうものですが、ここに来て、<まっさらな気持ち>で——コース用語に依存しない心で、“このコースを忘れ、両手をまったく空にして” 静寂(しじま)の内にとどまっていたいという思いが深まってきました。

コース用語を使用すること自体が防衛になるということではありませんが(むろん2024年もわたしはクラスでコース用語も使うわけですが)、なまじ学んだ心が陥りやすいのは、コース用語で防衛するという、巧み(?)な逃亡方法だと思います。
「投影」、「罪悪感」、「神に対する恐れ」、「贖罪」、「癒し」、「赦し」、「奇跡」。「ああ、これも罪悪感の投影ね」と言えるようになることが、コースの教え(イエスが言っていること)を理解したことになるのかと言えば、もちろんそんなことはありません。「これは何の投影かな?」と考える時点で、“投影”が何のことか、理解していません。“投影”だけでなく、“理解”についても、イエスは明確に述べてくれています。

コースは、言葉で“理解”するものではありません。頭脳で“理解”など、できるわけがありません——頭脳というのは自我がでっち上げたものなのだから、当然です。自我が、何を、“理解”できると言うのでしょう。

 

コース用語を、防衛する(リアルワールドに至ることを妨げ、目覚めを拒絶する)ための道具にすることなく(コースの教えをわかった気になって、心の深い領域に対して目を背け、ヴィジョンを受け取った気になって悟れないまま何年も、何十年も浪費するのではなく)、“真の学び”(=unlearning)の道具として使われるように、祈りの心を保ち、幻想(暗闇)を直視することから逃げないでいる姿勢が、非常に重要だと感じます。

ここから逃げない。ここから逃げなければ、何を経験することになるのでしょうか。

 

あえてコース用語を使うなら、“communion”。これが答えだと思います。

1.闇からの脱出には二つの段階がある。第一は、闇による隠蔽は不可能だという認識である。2この段階は通常、恐れを伴う。3第二は、たとえ可能だとしても、あなたが隠したいようなものは何もないという認識である。4この段階は恐れからの脱出をもたらす。5何も隠さなくてもよいと思うようになったとき、あなたは進んで聖餐にあずかろうとする意欲をもつだけでなく、平安と喜びも理解するだろう。

T-1.IV.1/『奇跡講座 上巻』

 

“communion”は、日本語版では“聖餐”と訳されています。
暗闇を直視することを恐れているのではなくて(でもこのように信じているのだから、ここは決してスキップできません)、“communion”を恐れているのです。

去年のいつ頃からだったでしょうか、“communion”という言葉、イエスが使ってくれているこの象徴が、とてもしっくりくるようになりました。何度か得も言われぬ経験をしました。何かもが取り消されて残るのは、“communion”なのです。唯一鮮やかに、はっきりとしているものが“communion”です。
 

4実相は霊のみに属し、奇跡は真理のみを是認する。5そうして、あなた自身についての幻想を一掃し、あなたを神およびあなた自身と結びつける聖餐の中に置く。

T-1.IV.2:4,5

3知覚は分離した状態を土台としているため、少しでも知覚している者なら誰でも、癒しを必要としている。4知っている者にとっては、祈りではなく聖餐が、自然な状態である。5神と神の奇跡は不可分である。6自らの光の中に生きる神の想念は、なんと美しいことだろう!

T-3.V.10:3-6

4融合のために使われるとき、肉体は、聖餐によりひとつになるための素晴らしいレッスンとなり、聖餐が実現するまで、価値あるものとなる。5これが、あなたが限定してしまったものを神が無限のものにする方法である。

T-8.VII.3:4,5

 

2024年は、“communion”に心を開ききっていたいと思います。今のわたしにとって、もうこれだけです。“communion”を望みます。そして、だからこそ、<まっさらな状態>でいたいと思っています。その実践的な取り組みとして、ワークブックのレッスンに対して、今年は新しい取り組み方でイエスに導かれ、練習しているところです。

今年はMinistersリトリート、Advanced Teachers Training Classと、ヴェリテとしても新しい試みがスタートします。イエスの導きに<従う>限り、間違いは、失敗はない。これはもう、強く確信していることです。他のクラスでも、個人セッションや個人レッスンでも、サークルでも。大勢のみなさんと今年も深い分かち合いの経験をご一緒できますことを心より楽しみにしております。

Blessings,

 

2024.1.5配信
(繋がってくださっている方に毎月お送りしています)

 

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聖なるハスの花のお祈り


ご一緒してくださっているみなさん、
本当にありがとうございます🙏🏻
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