4、5歳くらいの女の子が小走りでやって来て、小さな声で「トイレにいく」と言いました。席を立ち、会場のドアの前まで行くと、その子が小さな手でドアの取っ手を持ちかけたので、わたしはドアを押し開け、するりと外へ出た女の子についていきました。

 

どうもトイレの場所を知っているらしい様子ではあったけれども、トイレに続く廊下を一緒に歩き、その途中、「えいが、おもしろい?」と尋ねてみると、「うん」と頷きながら早足で歩いていきます。

 

「トイレのばしょ、しってるの?」と聞くと、「うん」と(声を出したのだったか、それとも頷いただけだったのだかもう忘れてしまいましたが)返事をして、女の子はたたっとトイレまで駆けていきました。

 

映画「かみさまとのやくそく」の上映会での出来事です。
わたしはその日ボランティアスタッフとして参加していて、会場の一番後ろに座っていたのでした。

その女の子がトイレの入り口まで歩いていったのを見送った後、わたしはそこで待っているべきかどうか少し迷いました。小さな女の子を残して、先に会場に入ってしまうのはよくないんじゃないかという気がしたのですが、トイレの場所を知っていたその子は、自分でちゃんと戻って来られるだろうとも思えたからです。

 

「でも、不審者が現れて、わたしの見ていない隙にその子を攫ってしまったらたいへんだ」という思いが浮かんできたのですが、そのすぐ後で、とても奇妙だと思いました。どうしてそんな心配をしているのだろう、どうしてあの子を、スピリットを信頼していないんだろうと。

 

そしてこうも思いました。女の子のことを心配しているフリをして、実のところ、最悪の事態が起こったときに間違いなく非難されるであろう自分のことを気にしているのだと。自我の思考というのはあまりにも滑稽で、結局のところ「防御」したいだけなのだということに気づいたわたしは、信頼の心でゆっくりと引き返し、会場内で待つことにしました。

 

その後ちょっとして、その子は自分でドアを押し開けて入ってきました。
もう小さな子どもには見えませんでした。

 

わたしだったら、あれくらいの年齢の頃に、知らない場所で、一人でトイレに行くことなどできなかったと思います。よく知っている近所のスーパーへ家族で買い物に出かけたときでも、幼稚園児だった弟はすぐ走り回ってどこかに行ってしまうというのに、小学生のわたしは怖くて、母から片時も離れずにピッタリとくっついていたくらいです。

 

 

 

そう言えば、駅構内や街中を歩いているときに、まだ小学生にも満たない年齢の子どもを連れた母親が、振り返りもせずに、ずんずん歩いていってしまうのを見るたびに、「どうしてあんなことが平気でできるんだろう」と腹立たしく思っていたことを思いだしました。わたしだったら、手をつないで歩けないのなら、子どもに自分の前を歩かせる。子どもの歩く速度に合わせずに、あんなふうに放っていくように早足で歩いたりなどしない。

 

そういう母親は、ちゃんと子どもを愛していないんだと思っていましたが、「ちゃんと」愛するとは、それにしても、いったいどういうことなのでしょうね。愛することに「ちゃんと」も「いい加減」もないでしょうに。自分の考えのおかしさに笑ってしまいます。

 

どんな子も、たれもかれも、みな大きな愛でやさしく包まれていて、安全なのです。
もし本当に「危険」があるのだとしたら、わたしのその誤った考えそのものが「危険」だと言えるのかもしれません。それを正しいと思い込んで、抱き続けてしまったならば。

 

かつて自分が幼い頃、危険にさらされていると感じていた、その思い込みが、小さな女の子をとおして、女の子の真の輝きをとおして、彼女を包む大きな愛をとおして、やさしく溶けていったように思います。

弱き者など、どこにもいないのです。

 

Blessings,

 

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