昨晩、アメブロのほうで
「Truth will out. / The truth will set you free.」
というタイトルのブログを書きました。
英語のタイトルにしたのには
意味があります。
Truth will out.
というのは英語のことわざで、
ここでのoutは
「露見する」という意味で使われています。
The truth will set you free.
これはというと、
イエスの言った言葉としてよく知られているようです。
(クリスチャンではないので知りませんでした)
そのブログ記事の内容は…
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最近思ったことを
今日はすこし書いてみます。
「過ちを文る」(かざる)
という言葉がありますが、
どんなにうまくごまかしたつもりでも、
まさに Truth will out. で、
隠しおおせるわけがありません。
いったん嘘をつけば
さらにまた嘘をつくことになります。
嘘をついて
なんとかいいように
取り計らってもらおうとするのは、
当然のことながら
賢明とはとうてい言えません。
ばれていないつもりでいても、
「天知る地知る己知る」 です。
自分が一番苦しむのですよね。
汚いやり方を使えば、
自分が罪の意識によって苦しむだけ。
論語に
「過ちを改めざる是を過ちと謂う」
とあります。
過ちを犯したとわかっていながら
改めないことこそ、
まさに過ち。
最初の過ちのあと、どうするか。
そこが重要です。
相手が嘘をついたら、
わたしはすぐにわかります。
ごまかしや不正が大嫌いで、
むかしのわたしは
見つけようものなら糾弾する!
そんな感じでした^ ^;
(実際、白日のもとにさらす、
ということをしたことがあります)
汚い手を使う人が心底嫌で
赦せないタイプでした。
いまも正直、
そういう人を「好き」とは言えません。笑
でも、
こんなことわざもあります。
「過つは人の性、許すは神の心」
「過つは人の性」
なんですよね。
わたしだって言うまでもなく、
たくさんの過ちを犯してきました。
そしてわたしはいつも
許されてきたのです。
「許すは神の心」
わたしたちは
最初からゆるされている。
罪を見て、なじるのは
人間だけなのですよね。
わたしは人間だけれども、
糾弾したり
なじったりするのは
したくない。
かつてように
白日のもとにさらして、
是正を求めるというやり方は
したくない。
たとえ
嘘をついていると知っていても。
わたしのすることと言えば、
わたしがした「投影」という名の過ちを
訂正できるよう、
ホーリースピリットに祈るだけです^ ^
わたしたちは、
「清らかな心そのもの」なのでした。
無辜の存在。
それが「真実」です。
それをこそ見ることができますようにと、
祈るだけ。
「真実」を
見ることができますように。
Only the truth will set us free.
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というものでした。
白日のもとにさらすことが「正義」だと、
かつてのわたしは思っていましたが、
そこで何が起きたのか、
なぜそうなったのか、
事実は何だったのか、
それを突き止め、明らかにし、
過ちを犯した人に是正を求めることそのものが
果たして「正義」なのかと言えば、
いまのわたしには疑問に思えるのです。
何が「正解」か。
何が「正しい」のか。
大事なのは、そこではないんですよね。
ケネス・ワプニック著『赦しのカリキュラム』に
このような記述があります。
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『奇跡講座』の「道徳」、すなわち、
何らかの特定の行動が「正しい」か「間違っている」かは、
唯一、私たちがどちらの声に耳を傾けることを選ぶか
ということだけを土台としています。
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ホーリースピリットの声に従うか、
エゴの声に従うか。
「真実」だけがわたしたちを自由にしてくれる。
それならば、
「真実」へと導いてくれるホーリースピリットに
祈り、
耳を傾け、
ガイダンスに従うよりほかに
何ができるというのでしょうか。
それ以外には、何もない。
そのように思います。
Blessings,
愛
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