#012

学びのわかち合いコーナー

 

前回に続き、ゆるしが難しいと感じる理由について
書いてみたいと思います。

なおご紹介くださる場合は、
このページのリンクをお知らせいただけましたらと存じます。
(本文のコピーはできません©️)

  

ゆるしが難しい理由シリーズ、
今回は3回目です。

なぜゆるし(赦し)が難しいと感じるのか、
その理由を一言で言うなら
自分でやろうとしているから」なのですが、

これをもう少し具体的に書くと・・

1)修行だと勘違いしている
2)自分には責任がないと思っている

という2点が挙げられます。

1つめについては
前回、例を挙げながら述べてみましたが、

ゆるし=耐え忍んで寛容になろうとすること
という勘違いをしていると

むろん、ゆるし=難しい
ということになりますよね。

 

今日は、2つめの
自分には責任がないと思っている
ということについて書いてみます◎

ゆるしたい、ゆるそうと思っても
難しくてできないと感じてしまうのは、

自分が不快感/苦痛/悲しみを
経験しているのは相手のせいだと
信じきっているからだ・・とも言えます。

こういう状態のときは、
相手の言ったこと、したことに
フォーカスし続けています。

「だって、この人はあんなことをした」と、
いつまでもそこにとらわれてしまう状態です。

相手の過去の言動に拘っているとき、
何をしているかと言うと・・

だからこの人は有罪だ」と主張しているし、
だからわたしは正しい」と言っています。

しかも・・
自分(自我と同一視している自己)を
防御したいと思っているし、
優位性を保ちたいとも考えています。

 

自分のなかで実在のものに
してしまった罪、罪悪感を
相手に投影しているだけなのに、

分離の信念を宝にするという
決断を下したのは自分なのに

その責任は自分にはない、
この人にある!!と
主張しているのです。

 

ホーリースピリットは
相手が何を言ったか、
何をしたかで善悪を判断しません。

コースは、道徳ではないのです。

言動から善悪を判断し
とちらが正しいか(何が正しいか)、
どちらが有罪かなどと考えません。

「どちらか一方」という発想は、
自我(エゴ)特有のものです。

 

何をするときも、次のことを思い出そう。    

誰もひとりで十字架にかかることはない。
しかしまた、誰もひとりで天国に入ることはできない。

W-pI.134.17:6-7
『奇跡講座 下巻』/中央アート出版社

 

誰かのことを有罪だとみなすのは、
自分のことを密かに
有罪だと信じているからであり

自分には罪はない(分離の責任はない)と言って、
罪悪感を除去するために
相手に投影したからにほかなりません。

けれども、誰かに罪を見る(裁く)なら
その攻撃によって罪悪感を抱かざるを得ず、
除去するはずのその暗闇は増すばかりです。

相手を十字架にかけるなら、
自分も十字架にかかることになります。

「どちらか一方」というわけにはいきません。

 

 

誰に出会うときも、それが神聖な出会いであることを思い出しなさい。

あなたは、彼を見る通りに自分自身を見る。彼を扱う通りに自分自身を扱う。
彼について考える通りに自分自身について考える。

このことを決して忘れてはならない。
なぜなら、彼の中で、あなたは自分を見失うことにも、自分を見出すことにもなるからである。

二人の神の子が出会うときはいつでも、両者に救済のための新たな機会が与えられる。

救済を相手に与え、自分も受け取ることをせずに、誰のもとからも立ち去ってはならない。

・・(中略)・・

あなたは兄弟と共に居るときはいつでも、自分が何であるかを教えているので、自分が何であるかを学んでいる。

あなたがどちらの教師に従っているかによって、兄弟は苦痛か喜びかのどちらかをもって応答する。

あなたの決断によって、彼は幽閉されることにもなれば、釈放されることにもなる。
そして、あなた自身も同様である。

彼に対するあなたの責任を決して忘れてはならない。
なぜなら、それがあなた自身に対するあなたの責任だからである。

神の国における彼の居場所を彼に与えなさい。そうすれば、あなたは自分の居場所をもつだろう。

T-8.III.4:1-7; 5::8-12
『奇跡講座 上巻』/中央アート出版社

 

自我(エゴ)を教師にすれば・・

「あなたは間違っている」
「あなたは欠けた存在だ」
「あなたは有罪だ」
「あなたの負けだ」
「あなたは変わらなければならない」
「あなたは(わたしを)理解しなければならない」

そのように相手を見ることになります。

自分のことを欠けていて、有罪だと
見ているから、
自我と同一視しているからです。

自分を見ているのです。

 

自分のことを神の子
(神とひとつの清らかなスピリット)であると
受け入れずに、

別な存在(神から分離した独自のもの)に
なれたと信じた責任を

誰か(兄弟姉妹)になすりつけても、
幸せにはなれません。

 

ジャッジしている、
投影している(相手に罪を見ている)と
気づいたときは、

自我ではなく
聖霊(ホーリースピリット)
教師として選びたいですね^^

 

ホーリースピリットを教師にすれば・・

「わたしは間違っていました(夢を見ていました)」
「わたしたちは完全無欠です」
「わたしたちは無罪です」
「わたしたちはひとつです」
「わたしたちの真の自己は変わることがありません」
「わたしたちは真の自己を思い出すことができます」

分離はないので、
ともに癒され、救われ、ともに天国に帰る
ということを信頼できます。

「どちらか」ではなく
「どちらも」です。

どちらが正しいか/有罪か」ではなく
どちらも真に無垢な神の子」です。

「どちらも地獄(分離)を選択したまま」
ということは、
わたしたちの本心ではないですよね^^

 

お互い、全く同じ清らかな
美しいスピリットです。

自我の、
「どちらの言動が正しいか」
「どちらの主張が正しいか」という
無意味な考えは相手にせずに

ともに癒され、ともに救われることが
わたしたちの願いであり、
幸せであると素直に受け入れて
ゆるしを選択するなら

すでにその願いは成就していたと
思い出すことができます。

聖なる瞬間において——。

 

相手の中に罪のなさを、
神聖性を
見せていただくことを通して

自分の無罪性を、
真の自己、神の子の清らかさを
思い出すことができます。

 

自分でやろうとせずに
ホーリースピリットに
助けてもらうことによって、

何度でも聖なる瞬間
経験していきましょう・.*

Blessings,

 

2021/4/10配信

 

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