11月も今月も、とても美しい体験が続き、ますます、A Course in Miracles(ア・コース・イン・ミラクルズ)を学ぶことで受け取れる贈り物は、計り知れないなと感じています。
コースに20代の頃に出合い、継続して学ぶようになってからは13年目、コースの学びをご一緒する場を公式に設けるようになって、2025年の5月で10年目になります。中高一貫校で教師をしていたのは10年間、ニューエイジでの、スピリチュアルティーチャーをしていた期間も確か10年ほどでしたので、あと半年くらいしたら、どちらも超えてしまいます。なんだかおもしろいです。
コースの教えに従うことで、どれほどの変容を体験できるかは、10代の頃の末吉愛を知っている人が、最もよく理解してくれると思いますが、コースの学びによって、確かに、<内側の改革>が起こると断言できます。
19歳の頃、リストカットをしていました。自分が生きていることが許せなかったのです。具体的に何かがあったわけではないのですが、内なるガイドの声を聴くことをやめたあたりから、どんどんおかしくなっていき、とうとう、自分を殺してしまいたいと思うようになっていました。自我に従うということは、“「死にたい、キリストを打ち負かしたい」という願望”(S-3.II.1:6)に従うということです。
6あらゆる悲しみ、損失、不安、苦しみや痛み、疲れたときの小さなため息、かすかな不快感やしかめ面さえも、みな死を認めている。7そうして、あなたは自分が生きていることを否定する。
W-pI.167.2:6,7『奇跡講座 下巻』中央アート出版社
奇妙なことに、手首から血が出ているのを見て、「ああ、生きている・・」と感じ、どこかでホッとしていました。死にたいからリストカットしているというよりも、自分が生きているかどうかを確認したくて、カッターで手首に傷をつけているのだと気づきました。生きているのに、生きている気がしなかったのです。本当に自分が<生きている>のかどうか、知りたかった。確かめたかった。そして、自分の行動としては、死を求めているのに、体は生きようとしている(回復しようとしてる)のを見て、「わたしは、本当は、生きたいんだ」と思いました。
コースを学んでいる今のわたしとしては、「体が生きようとしてる」などと思いませんが(肉体は何もしておらず、心に従っているのみです)、19歳のわたしはそのように考えていました。「死んで、人生を終わりにしたい」と初めて思ったのは、小学校低学年の頃でしたが(これもまた、特に何かがあったから、というわけではないのです)、わたしは、どうしても、生きたかったんだと思います。真に生きている実感がほしかった。
こんな、社会のゴミみたいな、無能で無価値な自分が、ここにいていいとは思えない。殺してしまいたい。終わらせたい。
その叫びは、本当は、生きたくて、生きたくて、たまらないという思いだったのだなと感じます。
生きたい——。
終わらせたい=生きたい。
*
わたしたちは、<終わらせる>ことができるし、<生きる>ことが、<生き続ける>ことができます。終わらせていいのです。終わらせることです。それが、<生きている>ということの、肯定だから。
でもそれは、むろん、肉体の生命を止めることではありません。終わらせる必要があるのは、この、分離の夢です。くだらない、投影劇です。自我の思考体系、狂気の思考体系です。心の中の、戦いです。神という完全なる愛を拒むことを、です。
生きたい——。
これは、どういう思いでしょうか。
19歳のわたしがリストカットを何歳でやめたか忘れましたが(20〜22のどこか、大学生のうちにやめました)、やめることができたのは、周りのひとたちの思いやりと愛に触れたからだったと思いますし、わたしがそれを求めていたからだったと思います。
生きたいという切実な願いは、人々と真に関わりたいという願いです。愛の交流、真のコミュニケーション、心の融合を体験したいという、心の底からの、願い。
<兄弟>、<フレンズ>。いまは、こうした言葉をよく使いますが、地上にいる理由は、兄弟との、フレンズとの愛の分かち合いのため、共に癒され救われるためだけだと感じます。リストカットをしていて、とても孤独で、人が嫌いで、引きこもり気質で、できるだけ人と関わることを避けてきた、かつての末吉愛は、もういません。初めから、いません。すべて夢でした。
何をそんなに、恐れていたのやら。
愛が恐かったのね、繋がりが恐ろしかったのね、と、今のわたしは、当時の自分を、内なるキリストの両腕で優しくハグすることができます。
もし、真のコミュニケーションを体験してしまったら、<わたし=キリスト>だと、思い出してしまうから。それが怖くて、嫌でたまらなくて、“「死にたい、キリストを打ち負かしたい」という願望”に、自我の声に、耳を貸していたのよね。そうやって、自分の体を傷つけたり、人を遠ざけたりしてきたのよね。
そうして、自分を世界の犠牲者に仕立て上げて、自分を憐れみ、憎み、蔑んできたのよね。その思いを、ほかの人たちや世界のあちこちに投影して、世の中不公平だと文句を言い、誰もわかってくれないと決めつけて心を閉ざし、苦しみと孤独感に苛まれていたのよね。
でも、もうだいじょうぶ。
6あなたは涙を浮かべながら来るかもしれない。7しかし、聖霊が次のように言うのを聞きなさい。「聖なる神の子である私の兄弟よ、あなたの無為な夢をよく見なさい。夢の中だからこうしたことが起こり得たのである」と。8そして、あなたは聖霊の笑い声とひとつになった兄弟と自分の笑い声を聞きながら、聖なる瞬間を後にするだろう。
T-27.Ⅷ.9『奇跡講座 上巻』中央アート出版社
真に、聖霊と共にそれを見たなら、一緒に優しく微笑むことができます。それまで信じていたものには何の力もなく、すべて実在性のないものであり、本当に“力”があるのは、永遠の愛のみで——神からのものにしか力はありません(T-11)——、すべての兄弟たちと<ひとつ>、わたしたちは一瞬たりとも孤独になれたためしはないということを、ずっと神に愛されているままであるということを、<体験>できるのです。それを一度でも<体験>したなら、二度と疑うことはできません。
いま、生き返って、Paradise。
本当のいのちを、真に<生きている>ということを——わたしは神が創造したままのわたしです、という真実を——心から受け入れられますように!
3あなたは埃の中を力なく手探りで進むうちに兄弟の手に触れたが、それを手放すべきか、それとも、長い間忘れていた生命あるものを掴むべきか決めかねていた。4その手をしっかりとつかみ、目を上げてあなたのたくましい仲間を見なさい。彼の中にあなたの自由の意味がある。5彼はあなたの傍らで十字架につけられていたかに見えた。6だが彼の聖性は汚されることなく完璧なままであり、彼があなたの傍らに居れば、あなたは今日、彼と共に楽園(パラダイス)に入り、神の平安を知るだろう。
T-20.III.9:3-6
分離の夢は、実は、すでに終わっているということに、心から感謝します。
すでに訂正はなされた(“世界はとうの昔に終わっている”)ということは、福音です。
もう終わっているのだから、終わらせます。
もう過ぎ去ったのだから、過ぎ去らせます。
コースを学び、コースを生きるということは、“兄弟愛をもって兄弟を愛していることを学ぶ”(T-31.II.10:5)ということです。
どうか、兄弟を、フレンズを、避けないでください。
愛から逃げないでください。
避けてもいいし、逃げ続けていてもいいけれど、それは、自ら進んで苦しみと孤独を選択しているということだと気づいたなら、どうしてそれを続けていられるでしょうか。原因と結果の法則を学んだというのなら、どうして、自我の、死の声に耳を傾け続けたりするでしょうか。
自分自身に正直に聞いてみなさい。「私は完璧な親交(コミュニケーション)を望むだろうか。そしてそれを邪魔するものはすべて永遠に手放したいと心底望んでいるだろうか」と。
T-15.IV.8:3
はい!!!
いま、蘇って、永遠のParadiseへ——。
Blessings,
愛
2024.12.7配信
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