目覚めに向かうこの旅路において、非常に大切なことの一つは、自分に優しくあることだと感じます。

自分が深い眠りに落ちていて、ただ夢を見ているにすぎないと認められるようになるまでに随分と時間を費やすことになるでしょうし、この世界が幻想だと多少なりとも受け入れられるようになったとしても(少なくとも知的なレベルにおいて)、だからと言って、目を覚ましたいと100%のコミットで心に固く誓える(この世界に全く力を見ない心でいられる)わけではないのですから。

もし全面的なコミットメントであれば、目覚めているはずです。望んでいるのに、そうなっていない、などということはなありません。目覚めを阻んでいるものは、目覚めを拒否する自分の心、その決断そのものなのです。

 

人は眠っているか目覚めているかのどちらかである。 その中間はない。

(W-pI.140.2:6-7/『奇跡講座 下巻』/中央アート出版社)

 

目覚めを拒否する心愛(=神)を拒絶する心(分離を望む心)のままでいることを誓っているから何も見えていないのであって、眠りこけているわけですが、そうである自分を責めたり、否定したり、恥じたりする必要はまったくない、ということもまた確かなことです。

もしそうした自分を責めるとしたら、「目覚めていない自分」という、偽りの自己がリアルだと、分離がリアルだと言っているのと同じことになります。永遠の愛である神から離れたことは一度もなく、わたしたちが愛そのものであるという事実は一度も変わったことはないのだから、あり得ないことを信じている、眠っているままの心を責め立てる必要はないのです。

 

目覚めについては、今年になって、わたしのうちで何か深まってきている感じがしていますが(内なるガイドであるホーリースピリットから鮮やかなメッセージを受け取ったので、それをクラスや個人セッションで何人かの方々にシェアさせていただいたのですが)、その事実を受け入れるまでのプロセスは、非常に優しく、あたたかく、愛に満ちたものなのだと実感しているところです。

 

なぜ天国を待つのだろう。天国は、今日ここにある。時間とは、天国が過去や未来にあるという巨大な幻想である。

(W-pI.131.6:1-3/『奇跡講座 下巻』/中央アート出版社)

 

なぜ天国を待ったりするのだろう。光を探し求める者は、単に目を覆っているにすぎない。その光は今、彼らの中にある。悟りとは認識にほかならず、変化のことなどではない。

(W-pI.188.1:1-4/『奇跡講座 下巻』/中央アート出版社)

 

天国へ帰ることを、愛に還ることを、こんなにも先延ばしにしたがっているということを、つまりはこんなにも分離の世界を、この世を、夢を大事にして手放すまいとしていることを、深刻に思わなくていいという安らかさのなかで、「今、選び直します」、「今こそ、心に決めます」と言うこと、何度だってそれを言うこと、そこに一切、自分を否定したり責めたりする思いを含ませずに言うこと、導き手であるホーリースピリットを信頼して言うこと、それが、自分に優しくあるということだと思っています。

たまに、キツいなと感じるときがあります。むろん、自我の思いです。これ以上進みたくない、この急速なスピードについていきたくないという気持ち、内なる聖性が放射され、地においても延長されて、それが表現されてしまうことへの恐れ、聖性の限界のなさに対しての恐れが浮上してくるときがあります。

ちっぽけな自分でいるほうがずっとマシ、という自我の思いです。真の自己の限りのなさは、拒否したいという気持ち。光がふさわしいのではなく、闇が相応だという思いです。

 

光と闇や、有と無といったものを、共存する可能性として考えることは不可能である。そのいずれも、全面的に真実であるか、全面的に間違いであるかのどちらかである。どちらか一方に確固とした忠誠を誓うまではあなたの思考は不安定だと理解することが、きわめて重要であるしかし、闇や無に対し確固とした忠誠を誓うことは不可能である。これまで生きてきた人の中で、いくらかの光といくらかの物を経験したことがない人はいない。したがって、たとえ自分ではそれができると考えたとしても、誰も真理を全面的に否定することはできない

(T-3.II.1:3-8/『奇跡講座 上巻』/中央アート出版社)

 

分離というあり得ないことを信じて、闇に、幻想に、自我に忠誠を誓ってきたがゆえに、この世界でわたしたちは差異を、分断を、苦痛を、病を、死を見ることになってしまったけれども、あり得ないこと、リアルでないことに全面的に、心をまるごと捧げることはできないというのは、うれしいお知らせです。

わたしたちの心が確固とした忠誠を誓えるのは、真実に対してのみ。夢ではなく、現に。闇ではなく、光に。天国の記憶を保持してくれていて、わたしたちを導いてくれるホーリースピリットについてゆくこと。喜んで従うこと。地上において選べるのは、このことだけなのでした。

 

心が揺れたとき、クリスチャンではないけれど持っているチャプレットを手に、「ホーリースピリット、わたしはここにいます」と(Jesusがビルに伝えた“Here I am Lord”という言葉をもとにして)心のうちで言いました。そうして静かにしていると、わたしの心の奥で、わたしが真に願っていることが感じられました。それだけで、霧が晴れるかのようでした。

誰も真理を全面的に否定できないということに心から感謝するばかりです。
ときに遠回りを、寄り道をしても——それもまた、ホーリースピリットに託すなら、すべて「奇跡の道具」となるのですから——安心していたいものです。

自分がよそ見をしていても、仲間たちが、兄弟が、助けてくれます。共に学ぶことの素晴らしさは、この旅は、個人的なものではないということ、自分ひとりの力で進んでいけるものではなく、心の手を取り合うことで歩めるものなのだと実感できることにあると言えそうです。

わたし自身、ご一緒してくださるみなさんに救われています。
すべての出会いは、神聖な出会い——。それを実感し、感謝する毎日です。
ほんとうに、ありがとうございます。

これからも、共に。
心はいつも、一緒です・.*

Blessings,

2021.10.7配信

   
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