いくつぐらいの頃だったでしょうか(確か10代後半だったと思うのですが)、なんでもネガティブに捉えては落ち込む、あるいは苛立ってばかりいるわたしに、母が、水に入ったコップの話をしてくれたことがありました。

喉が渇いているときに、半分水が入ったコップがあるとしたら、愛ちゃんは、「半分しかない!」って文句言うけど、「ああ、半分もあった!よかった!」って、考えることもできるんやで、と。

自分のことを欠けていて、脆く、価値のない存在だと信じて疑わないわたしにとっては、何を見ても、「足りない!」。「してくれない!」、「わかってくれない!」、ない!、ない!、ない!のです。笑

 

周りの人たちが差し出してくれているものがまったく見えておらず、ケチをつけることや粗探しをすることに余念がありませんでした。欠けているところのほうが目につく(それを「欠けている」と断じたこと自体が間違っているということに少しも気づいていませんでした)。与えてもらっていることに感謝を示さず、口を開けば不平不満の数々

なんと、貧しかったことでしょう。

本当は、ずっと満ちていたというのに、それに気づけずにいた(もっと言うなら、それを否定してきた)当時のわたしの心は貧しかったのです。

 

コップに水が半分入っている。まったく同じものを見ても、「半分しかない」と文句を言う人もいれば、「半分もある」と喜ぶ人もいる。

10代のわたしにとっては、「あることに感謝する」という学びの始まりとして大事なレッスンだったのだと思いますが、今のわたしにとっては、「半分しかない」も、「半分もある」も、どちらも自我の見方だと感じられます。ネガティブに捉えようと、ポジティブに捉えようと、自我のものの見方であることに変わりないからです。

自我(ego)ではなくて、わたしたちの真の教師、内なるガイドである聖霊(Holy Spirit)のまなざしで見るなら、コップにどのくらいの水があるかということについて述べたがる思いは消えていて、コップという枠も消え去り、言うならば愛の湧き水が、どこまでも与え続けられている、それも全的に、遍く与えられているという美しさに触れ、喜びを経験することになります。

なんと、豊かなことでしょう。

 

豊かさというのは、「わたし(という個人)にとってどうか」という観点を脇にやって、「すべて」に心を開くときに受け取れるもの、経験できるもの——思い出せるものではないでしょうか。

わたしたちはすでに、豊かな存在です。すべてが在ります。すべてを有しています。わたしたちは豊かさそのもの、愛そのものです。「すべて」です。

ワタシという個人にとらわれるのではなく、わたしたちという「すべて」(=ほんとうのわたし)を思うなら、どこに足りなさが見えるでしょうか。どこに欠けているところがあるというのでしょうか。

 

半分水が入っているコップを肉眼がとらえるとき、「すべて」を思う心、「すべて」を選ぶ心には、それが完璧なのだと、ハートで受け入れられているのではないでしょうか

半分だから足りない、半分だから恵まれている。そんな思いはどこにもないのでは?
感謝というのは、たとえコップに入っている水が、半分どころかわずか10ccでも、あるいは一滴も入っていないとしても、肉眼がとらえるもの自体によらず、常にその完璧さ、必然性、すでに満ちているという事実に対して抱く想念のことなのではないでしょうか。

 

不平不満を抱くということは、はなから、足りなさを見る決断をしていたということです。足りなさを見たがっていたのだから、それが見えます。自分=欠けている存在という信念をそっくりそのまま見ているだけなのです。

豊かさを見たいなら、すでに真に豊かであるという事実に心を開くこと。それを思い出したいと願うこと。わたしたちが豊かであるということは、紛れもない真実なので、それは確かに、この地上において、心のまなざしによって見られるのです。しかも、具体的な愛の体験を通して。誰かとの関わり合いのなかで。「すべて」であることを思い出す機会として。

それは本当に・・幸せなことです。

 

貧しかった頃のわたしを、嫌う気持ちにはなれません。すでに愛されているという事実に背を向けていたことを、嗤う気持ちにはなれません。当時のわたしのcall for loveに、いま、応えたい。

出逢うひとすべての方のなかに、聖なる光を見させていただく・・ということを通して。
わたしたちが何だったかを、思い出すために。

Blessings,

 

2021/11/14配信

 

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