ア・コース・イン・ミラクルズ(ACIM)、日本では『奇跡のコース』、『奇跡講座』、『奇跡の道』と呼ばれていますが、この本の学びは、「自学自習」だとよく言われています。

ネット上であまりによく目にする言葉でしたので、そういうものなのだと思っていたのですが、A Course in Miraclesには「self-study」という言葉はどこにも見られないという事実を知りました。

それでわたしは日本語訳版(『奇跡講座』、『奇跡のコース』両方とも)でも調べました(それぞれ電子書籍で検索をかけました)が、テキスト、ワークブック、マニュアルのどのパートにも「自学自習」、「独習」、「自習」という単語は出てきません。本文には、そのようなイエスの言葉はないのです。

 

念のために、

 

このどちらの本も電子書籍版で検索をかけて調べてみましたが、「self-study」という言葉は0件、どこにもありませんでした。

 

この事実を知る前日のことです。

わたしは実は、この「自学自習」という考え(言葉)に随分前から疑問を抱いていました。
コースは自分で学ぶものであり、基本的に誰かから教わって学ぶものではない。自分一人でテキスト、ワークブック、マニュアルを最後まで読むものだ云々……。
 

「自習」というのは、直接指導を受けることなく、自分の力で学ぶことを指すわけですが、この「自分」というのが、もし自我と同一視してしまっている(ことにさえ全く気づいてない)自己のことなのだとしたら、コースを「自分で」真に学習するというのは、不可能なことではないでしょうか。
 

自習:他者の指導を受けないで、自分で学習・練習すること。(明鏡国語辞典 第二版)

self-study
the study of something by oneself, as through books, records, etc., without direct supervision or attendance in a class (dictionary.com)

 

テキストをほんの少しでも読んでみればわかりますが、目を通しただけで理解できるようなものではありません。真にここに書かれていることを学びたいと思うなら、おそらくごく自然に、「学ぶには助けが必要だ」と感じるのではないでしょうか。

 

この日も、ぼんやりとではありましたが、「やっぱり、自学自習だと言う意味がわからない」と思っていたのです。
疑問は、いつも、ホーリースピリットもしくはイエスに託します。それでこの日の夜もそうして、眠ることにしました。

 

目が覚めると、テキストの序文の前半部分がふっと浮かび上がってきました。

これは奇跡についてのコースである。必修科目である。いつ受講するかだけがあなたの自由である。自由意志とは、あなたがカリキュラムを編成できるという意味ではない。ある時期に何を受講したいかを選択できるというだけのことである。

(『奇跡講座 上巻』/中央アート出版社)

 

自由意志で、学ぶ——。

勝手に、学ぶ内容や道すじを変えることは——「自分」(!) はすべてわかっている、という立場に立つことは――できないのだし、誰かに、学ぶこと自体を強制されたり、どんなふうに(どんな順番で)、どのくらいのペースで学びを進めていくかを勝手に決めつけられたりするものではなく、学びの意欲(それもほんの少しで大丈夫)を持てたとき、真の意欲を思いだせたときにスタートし、進んでいくものなのだと感じます。

 

真の自己を思いだすというのは、誰もがいずれ経験することであって、そういう意味で、この学びは決定事項と言えるのだろうと思いますし、そもそもわたしたちは自我(エゴ)ではなく、エゴは実在していないのだから、元に戻ることは確定(神の子であることは揺るがない事実)なのです。

いつ、その道を歩き始めるのか、それは自分で決めること。歩むことは決定済み。道というのは、実のところ、それ以外にはないのだから。

 

学びはすべて、天国の門に到達するための助けとなるか、妨げとなるかのどちらかである。その中間はあり得ない。異なった道を指し示す二人の教師がいるだけである。そしてあなたは、自分で選んだ教師が導く道に沿って進むことになる。時間が存続し、選択というものに意味がある間は、あなたが進むことのできる方向は二つしかない。なぜなら、天国への道以外に、別な道が作られることはないからである。あなたは天国に向かって進むか、天国から遠ざかってどこにも行き着かないかのどちらかを選ぶだけである。それ以外の選択肢はない。

(『奇跡講座 上巻』T-26.V.1/中央アート出版社)

 

 

コースは、心の訓練をしていくためのカリキュラム ですが、マニュアル編にこのように述べられているところがあります。

訓練は常に、個々人に即したもの

(『奇跡講座 下巻』M-9.1:5/中央アート出版社)

このカリキュラム は個々人に即したものとなっており、そのすべての側面が聖霊の特別な配慮と指導のもとにある。

(『奇跡講座 下巻』M-29.2:6/中央アート出版社)

 

コースの学び方に関しては、

場合によっては、生徒にとって、この「マニュアル」を最初に読むことが役に立つかもしれない。あるいは、「ワークブック」から始めたほうが良い者たちもいるだろう。さらに他の者たちは、「テキスト」で、もっと抽象的なレベルから始める必要があるかもしれない。

 
と、同じくマニュアル編29で述べられています。

 

真の自己を思いだす道を歩むことはみんな一緒だけれども、どのように歩んでいくかはそれぞれ。
ここでひとつ、とても重要なことで、忘れてはいけないことは、この道をサポートするのは、聖霊(ホーリースピリット)だということです。

内なる教師、ホーリースピリットの導きのもと、歩んでいく。

 

奇跡とは、間違った知覚(自我の知覚)から正しい知覚(聖霊の知覚)へと移行することですが、知覚に関してはテキスト第11章で次のように書かれています。

知覚についての指導を、あなたは大いに必要としている。あなたは何も理解していないからである。このことを認識しなさい。

知覚は学ばれるものであり、あなたには教師がいないわけではない。だが、その教師から学ぼうとする意欲は、自分自身で学んだことのすべてを疑問視するのを厭わないという気持ちに依拠している。なぜなら、誤って学んだあなたは、自分自身の教師となるべきではないからである。

 

こうして振り返ってみることで見えてくることは、コースは、自分で(自我と同一視してしまっている自己で)学ぶべきではなく、内なる教師、神の教師である聖霊(ホーリースピリット)に導かれて(助けを求めて)学んでいくことが大切であり、

エゴを教師とするのではなく、ホーリースピリットを教師として進んでいくことができるようになるうえで、その人その人に応じたタイミング、出逢い、プロセスを用意してもらうことができ、たとえば道中、先を行っている人(この世界で言うところのティーチャー)のもとで学ぶということも大いにあり得るということです。

イエスは、コース(テキスト、ワークブック、マニュアル)を、たった一人で最後まで読み、やり遂げなさいとは一言も言っていないし、誰か人の助けを借りてはならないとも言っていません。

 
気をつけたいことがあるとしたら、誰かにすがって学んだり、誰かを教祖か何かのように扱ったり、わたしはホーリースピリットの声が聞こえないので、先生に何と言っているのか代わりに聞いてもらわなければいけないのだと考えたりすることでしょうか。

内なる教師がいて、いつも一緒なのですから、必ず導いてもらえるのですから、そこは勘違いしたくないところです。
この先生がいないとコースを学べない、などということはありませんし、この先生だけが絶対!とするのも、おかしなことです。

 

こうして自分のなかで整理された日の翌日、コースには「自学自習」(self-study)という言葉はどこにも記されていない(イエスはそのようなことは言わなかった)という事実を知ったのです。

なるほど、だからずっと違和感があったのかと思いました。
翌日にこうして答えをもらえたことに、感謝しました。

 

どんなプロセスになろうとも、それが真の意味で最善であり、どこへ行き、誰に会い、何をするのか、そのすべてをホーリースピリットにゆだねればよいのだということ、すべてはよきことのためにあるのだということを覚えていたいものです。

天国の門への道を知っているのは、導けるのは、ホーリースピリット、イエスだけ。

ホーリースピリットは、兄弟姉妹のなかに見ることができます。
ときにイエスを見ることもあります。

教師とは、ホーリースピリットであり、イエスであり、すべての兄弟姉妹なのだと感じます。

学ぶ姿勢を、忘れませんように。

 

Blessings,

 

 
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