『奇跡のコース』ワークブック・レッスンの気づきを綴っています
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Lesson309:今日、わたしは、内面を見つめることを恐れません。
  
今日のレッスンにこうあります。
 
わたしは、実在ではない別の意志を創り出し、それを実在にしたと思っているので、内面を見つめることを恐れているのです。しかし、そうしたものには何の影響力もありません。わたしの内には、神の聖性があります。

 
 
思いだすのは、テキスト第11章のこの箇所です。
 
幻想を直視しない限り、誰も幻想から逃れることはできない。見ないでいることにより、幻想が保護されているからである。幻想が危険なはずはないのだから、幻想からしり込みする必要はない。

 
そもそも分離と言う誤謬全体が、自我には何かをする力があるという信念に根差している。あなたがそれを信じているからこそ、自我はあなたにとって恐ろしいのである。だが、真理はきわめて単純である。
 
 すべての力は神からのものである。
 神からでないものには、何をする力もない。

 
 
 
第13章にはこう述べられているところがあります。
 
内側を見ることを恐れてはならない。自我は、あなたの内側ではすべてが罪悪で黒く染まっているとあなたに教え、そこを見ないようにと命じる。その代わりに、兄弟たちに目を向け、彼らの中こその罪悪を見るようにと命じる。だが、あなたはこのようなことをすれば、盲目であり続けることになる。なぜなら、闇の中に兄弟を見て、自分で彼らを闇の中に包み込んだことで彼らを有罪と見る者たちは、内なる光を正視できないほどに恐れているからである。あなたの内には、あなたがそこにあると信じ、信を置いてきたものは存在しない。あなたの内に存在しているのは、父があなたに対し抱いている完璧な信を示す聖なるしるしである。

 
 
内側を見れば、自分がどんなに酷いか、黒さや汚さを見ることになると勘違いをしているから——その黒いものが、不完全さ、汚さ、酷さ、脆さが自分なのだと思い込んでいるから——内側を見たくはないと感じる。
 
気づかなかったことにしよう、感じていないフリをしよう、平気だ、大丈夫だ、ちっとも怖がってなんかいやしない、なに、大したことはないのだ、だいたい、私は少しも悪くなどない、そうだ、アイツはどうだ、社会はどうだ、もっとひどいじゃないか、こんな世の中なんだから、私が何を思おうと、どうということはない。酷いのは誰だ、そうだ、神だ、こんな世界をつくったのだから。神のどこに愛があるというんだ、見ろ、事実こんなに私は傷ついているじゃないか、冗談じゃない、とんでもない、ああ、なんて酷いんだ!
 
 
自我(エゴ)を教師としてしまったらなら、こんなことしか考えられない。
恐れを、罪悪感を、分離を、実在のものとしようとし、つまり神を否定して、愛に背を向けることしかできない。
 
確かに、正気の沙汰ではない。笑
 
 
ホーリースピリットと一緒に内側を見ると、黒いものなどどこにもなく、恐れは幻想であり、分離など起きてはいなかった、間違って知覚していただけだった、神の愛のほかには何もなかったのだと感じられます。
 
それを思いだせるように、あたたかな体験がやって来ることもあります。
何度でも。
 
何も恐れる必要がないということ、いっさい防御しなくていいということが本当にわかるようになるには、どんな小さな恐れも、どんな微かな動揺も、隠したり、放っておいたりしないこと。
ホーリースピリットに隠し事はなし。みんな、預けること。訂正をお願いすること。
 
隠し持っているものを見せたら、裁かれるかもしれないなどと、恐れる必要はないのです。
どだいそれは、実在していないのだから。
 
 
 
Blessings,
 
2019.3.5
 
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ワークブックレッスン日本語版は、
『奇跡のコース』のワークを学ぶ
ガイドブック11 蘇生する自己/
香咲弥須子/ナチュラルスピリットより
引用させていただきました。
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(ワークブックのレッスンでの気づきは、
4周目として取り組んでいるわたしの、
あくまでもごく個人的なものです)
 
 
 
A Course in Miracles(ア・コース・イン・ミラクルズ)には
テキスト編、ワークブック編、教師のマニュアル編があります。
日本語版は、中央アート出版、またはナチュラルスピリットから出ています。
 
ワークブックのレッスン内容の詳細については、ワークブック編をお読みください。
(こちらのブログでは詳細については記載しておりません)
 
 
 
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