『奇跡のコース』ワークブック・レッスンの気づきを綴っています
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Lesson256:神こそ、今日のわたしの唯一のゴールです。
  
しっかりと胸に刻んでおきたいところ。
 
この世界では、神へ至るためにはゆるしの道しかありません。それ以外の道はありません。…(中略)…ここでは、夢を見ることしかできません。しかし、わたしたちは、いかなる罪も持ち得ない人のことを自分たちはゆるしたという夢を見ることはできるのです。

 
神と神の子はひとつであったのに、特別性を選び、分離を選び、兄弟姉妹を見知らぬ者にしてしまったのだから、神に、ワンネスに戻る(真実を思いだす)には、押しやってしまった兄弟姉妹たちが、まさに神の子としてひとつ、何の違いもなく、対等であり、同じスピリットなのだと思いださなくてはなりません。
 
誰かをジャッジしておきながら、兄弟姉妹を肉体だと見なしておきながら、自分だけが神へと至るなどということは不可能です。
 
たとえば犯罪者、凶悪犯に対して、あるいは身近な誰かに対して罪を見ておきながら、断罪しておきながら、自分は神の子なのだと完全に思いだすなどということはあり得ません。
 
誰かを避けておきながら、誰かの欠落を見ておきながら――それがたとえちょっと、「この人は困った人だ」と思う程度であるとしても――自分は愛そのものなのだと確信することなど不可能です。
 
誰ひとりとして、見知らぬ者とすることは間違いなのです。神は誰とも分離しておらず、誰のことも見捨ててはいない。神の子とは、ただひとりであって、ひとつであって、肉体のことではない。
 
 
過去のこんなレッスンがありました。
 
赦す者たちは、自らを幻想から解放しているのであり、赦しを与えずにおく者たちは、自分自身を幻想に縛りつけているのである。そしてあなたが咎める相手はあなた自身だけであり、あなたが赦す相手もあなた自身だけである。

(『奇跡講座 ワークブック編』レッスン46/中央アート出版社)
 
 
 
悪が確かにあって、罪があって、それを赦すように言われているのではなくて、たとえそのように見えていたとしても、それは自分が見たくて見ていること(分離は確かにリアルなのだと思いたくてドラマをつくっていること)であり、肉眼で見えるものが真実を証明するはずはなく、一度も起きたことのないことを、そこにいつまでも罪を見て――見るからには罪悪感を抱くことから逃れられるはずはなく――この世界で苦しみを選択し続けるのではなく、もうそのような痛みを選ぶ必要はないということ、相手が自分を攻撃しているわけではない(どう見るかの責任はわたしにある)ということを受け入れて、肉眼でどう見えていようとも、真実はどうであるのかを見たい、ホーリースピリットにはどのように映っているのかを学びたい、ここで本当に与えられている贈り物を受け取りたいと願うなら、必ずそれは与えられるということを学びなさい、経験しなさいと言われているのだと思います。
 
神から分離するということを選んだことに(思いを持っただけであって、それは一度も起こらなかった、ただの夢でしかなかったことに)罪の意識を持ち、それを隠し、罪悪感から逃れるために投影というからくりを使って他者に罪を見、ジャッジし、攻撃し、それによって自己の痛みを抱えなくて済むという、少しもうまくはいかないエゴのやり方を捨てて、結局のところわたしがわたしに有罪判決を下しただけだった、でも神は一度もわたしを咎めたことはなかった、分離など起きてはいなかった、まったく罪はないのだったと思いだすこと。それが、神への道。
 
だから、現れてくださるすべてのひとは、わたしの救い主なのです。
すべてのひとの、神聖性を、輝きを、清らかさと美しさを、見続けていられますように。
 
 
Blessings,
 
2019.1.11
 
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ワークブックレッスン日本語版は、
『奇跡のコース』のワークを学ぶ
ガイドブック10 特別性の終焉/
香咲弥須子/ナチュラルスピリットより
引用させていただきました。
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(ワークブックのレッスンでの気づきは、
4周目として取り組んでいるわたしの、
あくまでもごく個人的なものです)
 
 
 
A Course in Miracles(ア・コース・イン・ミラクルズ)には
テキスト編、ワークブック編、教師のマニュアル編があります。
日本語版は、中央アート出版、またはナチュラルスピリットから出ています。
 
ワークブックのレッスン内容の詳細については、ワークブック編をお読みください。
(こちらのブログでは詳細については記載しておりません)
 
 
 
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