『奇跡のコース』ワークブック・レッスンの気づきを綴っています
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Lesson228:神は、わたしを非難していません。わたしもまた自分のことを非難しません。
今日の祈りも、大切に、丁寧に‥心をこめて祈りたいと感じました。
非難については、テキストでこのように述べられているところがあります。
非難を自分に向けるなら、あなたは自分自身を知ることができない。というのも、つまるところ、自我だけが非難するものだからである。したがって、自己非難は自我と同一化することであり、他人を非難することと同じく、自我による防衛である。神の子を攻撃するなら、あなたは神の臨在の中に入ることはできない。
(『奇跡講座 テキスト編』第11章/中央アート出版社)
非難することは、真のアイデンティティを見失うこと。自分を自我と同一視し、分離を選ぶこと。
分離を選ぶなら、わたし=神の子、永遠のスピリットであるという事実を思い出すことは決してない。
分離を選ぶなら、わたし=神の子、永遠のスピリットであるという事実を思い出すことは決してない。
自分を神の子だと受け入れることは、傲慢なことではありません。
神が創造したままの自分自身を受け入れることが傲慢なはずがない。なぜなら、それは傲慢さの否定だからである。あなたの非少さを受け入れることこそ傲慢である。なぜならそれは、自分自身についてのあなたの評価が神のそれよりも真実だと、あなたが信じていることを意味するからである。
(『奇跡講座 テキスト編」第9章/中央アート出版社)
レッスン152には、
自我だけが傲慢になり得ます。でも真実は、その力強さや不変さ、永遠に完全であること、例外はなく愛する我が子への神の完璧な贈り物である、と謙虚に認めます。自分たちは罪人なので、罪の意識に苦しみ、恐れを抱き、自らの姿を恥じている、と言い張る傲慢さを捨て、その代わりに、真に謙虚に、清らかな、神ご自身に類似したものとして、力と愛の中でわたしたちを創造してくださった神に祈りを捧げます。
と書かれています。
今日の祈りの言葉に
父よ、わたしは、自分自身を思い違いしていました。
わたしがやってきた源を自覚しそこねていました。
わたしが、その源を去り、身体に入って死ぬことはありません。
とあります。
わたしが、身体に入って死ぬことはないのです。わたしは、肉体ではありません。わたしは永遠のスピリットです。
死を通して達成されるものなど何もない。死は無だからである。すべては生命(いのち)を通して達成される。そして、生命(いのち)は心に属し、心の中にある。肉体は生きもせず、死にもしない。生命(いのち)そのものであるあなたを、肉体が包含することはできないからである。
神は肉体を作らなかった。なぜなら肉体は破壊可能であり、したがって、神の国に属するものではないからである。肉体は、あなたが自分は何であると考えているかを象徴するものである。それは明らかに分離のための仕組みであり、したがって、存在しない。聖霊は、いつもの通り、あなたが作り出したものを取りあげて、それを学習手段へと翻訳する。同じくいつも通り、聖霊は、自我が分離のための論拠として使うものを、その反証へと解釈し直す。
(『奇跡講座 テキスト編』第6章/中央アート出版社)
わたしは、身体ではありません。わたしは今でも、神が創造されたままのわたしなのです。
深く‥‥真に謙虚に、受け止めます。
Blessings,
愛
愛
2018.12.14
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ワークブックレッスン日本語版は、
『奇跡のコース』のワークを学ぶ
ガイドブック9 祈りのある生き方/
香咲弥須子/ナチュラルスピリットより
引用させていただきました。
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『奇跡のコース』のワークを学ぶ
ガイドブック9 祈りのある生き方/
香咲弥須子/ナチュラルスピリットより
引用させていただきました。
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(ワークブックのレッスンでの気づきは、
4周目として取り組んでいるわたしの、
あくまでもごく個人的なものです)
4周目として取り組んでいるわたしの、
あくまでもごく個人的なものです)
A Course in Miracles(ア・コース・イン・ミラクルズ)には
テキスト編、ワークブック編、教師のマニュアル編があります。
テキスト編、ワークブック編、教師のマニュアル編があります。
日本語版は、中央アート出版、またはナチュラルスピリットから出ています。
ワークブックのレッスン内容の詳細については、ワークブック編をお読みください。
(こちらのブログでは詳細については記載しておりません)
(こちらのブログでは詳細については記載しておりません)