奇跡のコース』ワークブック・レッスンの気づきを綴っています
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わたしは身体ではありません。わたしは自由です。
わたしは、今でも神が創造されたままのわたしだからです。
▶Lesson194
わたしは、未来を神の手に委ねます。
今日はこのレッスンの復習です。
自分で、不安から計画を立てなくても大丈夫なんだということを、これまで以上に深く経験したいと思いました。
コースを学ぶことによって、自然と導かれることが、とても心地よいことなのだと感じられるようになったなと思います。
しずかな、清らかな川の流れに身を任せているような、安らかな感覚です。
過去は去っています。未来はまだ来ていません。わたしは今、そのどちらからも自由です。神が授けてくださることはよきことのためだけだからです。だから、わたしは、神が与えてくださるものだけを、わたしに属するものとして受け入れます。
現在だけを選び、恵みを受け取りたいと思います。
今日は、知らない韓国人女性に話しかけられて、少しのあいだでしたが色々と会話をしました。
たぶんそれは、何かのキャッチだと思うのですが、自然な成り行きで、わたしは警戒せずに会話の時間をもちました。
相手の目的が何であれ、その機会は、ふたりの癒しと救いの機会です。
教えることの最も単純なレベルは、かなり表面的なものに見える。それはまったく何気ない出会いのように見えるもので成り立っている。たとえば、エレベーターの中で明らかに赤の他人である二人が「不意に」出会うとか、前も見ずに走っていた子供が一人の大人に「偶然に」ぶつかるとか、二人の学生が「たまたま」一緒に歩いて帰る、といったことである。こうしたことは、偶然の遭遇ではない。そのどれもが、「教えて学ぶ状況」となる可能性を含んでいる。
エレベーターの中の他人同士に見える二人が互いに微笑みかけるかもしれないし、子供がぶつかった大人は、その子を叱らないかもしれない。また、学生たちは友達になるかもしれない。最も何気ない出会いのレベルにおいてさえ、たとえほんの一瞬だけだとしても、二人の者が別個の利害を忘れることは可能である。その一瞬で充分である。救済は訪れたのである。
(『奇跡講座 マニュアル編』M-3/中央アート出版社)
誰に出会うときも、それが神聖な出会いであることを思い出しなさい。あなたは、彼を見る通りに自分自身を見る。彼を扱う通りに自分自身を扱う。彼について考える通りに自分自身について考える。このことを決して忘れてはならない。なぜなら、彼の中で、あなたは自分を見失うことにも、自分を見出すことにもなるからである。二人の神の子が出会うときはいつでも、両者に救済のための新たな機会が与えられる。救済を相手に与え、自分も受け取ることをせずに、誰のもとからも立ち去ってはならない。
(『奇跡講座 テキスト編』T-8.Ⅲ.4/中央アート出版社)
韓国人女性は、旅行会社に勤めていると言い、「日本人の良さとは、何だと思いますか?」といったことを最初は聞いてこられたのだけれども、途中から、「どうしてお姉さんは、そんなにキラキラしているんですか?」、「なんだか、開いていますね」といったことを話しだされ、気がついたら、わたしは彼女(名前も知らない外国人女性)と、生き方について話していました。難波の、駅構内で。立ったまま、二人で。会社帰りの、あふれる人々の行き交う流れの真ん中で。
何か、ねらいがあるのだろうけれども、わたしには警戒する気持ちが全くなくて、以前からの知り合いかのように、友人に話すかのように、自分自身のことも含め、色々と話しました。とても楽しいひとときでした。
その短い、10分ほどのあいだに、何かを交わしたような気持ちがしました。
最後の、彼女の「お誘い」にはお断りしたけれども、わたしには、彼女の美しさが感じられて、名残惜しささえ感じました。
わたしのハートはあたたかく、感謝の思いが――。
すべてを、神の手に、ホーリースピリットにゆだねるなら、どんな場面も、愛をわかち合う機会となるのだとおもいます。
未来を案じる必要はありません。何の不安もありません。恐れは不要です。
愛とやさしさのなかで、常に護られていて、誰もがみな神の子なのですから。
感謝の思いとともに、眠りにつきたいとおもいます。
愛
『奇跡のコース』のワークを学ぶ
ガイドブック8 豊かさの力学/
香咲弥須子/ナチュラルスピリットより
引用させていただきました。
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4周目として取り組んでいるわたしの、
あくまでもごく個人的なものです)
テキスト編、ワークブック編、教師のマニュアル編があります。
(こちらのブログでは詳細については記載しておりません)