奇跡のコース』ワークブック・レッスンの気づきを綴っています
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最初の一文を、さらっと読まずに、よくかみしめておきたいと思いました。
身体を自分自身だと知覚しているかぎり、自由になれるはずがありません。身体とは制限です。身体の中で自由を求める人は、見つけられるはずのないところで自由を探しています。心が自由になるのは、自分が身体の中にあり、身体を分かちがたい存在で、また身体があることで守られているのだとみなさなくなるときです。心が身体の中にあるとしたら、心はたしかに傷つきやすいものでしょう。
よく、「自由になりたい」などと言うとき、イメージしていることは、「自由に」好きなときに好きな所へ出かけ、「自由に」好きなものを買いたいときに買い、「自由に」時間を使えることだろうと思いますが、むろんこのとき、自分を身体だと見なしていて、自分の好きにできるということを「自由」だと言っているわけですが、これはちっとも「自由」などではないのです。
いま、ぱっとテキストを開いたら、このように書かれているところが目に入ってきました。
神があなたなしに存在することを意志できないのと同じように、あなたも神なしに存在しようと意志することはできなくなる。これが自由であり、これが喜びである。
(『奇跡講座 テキスト編』第8章/中央アート出版社)
ほかにも、
神についての私たちの記憶がある。そして、この記憶の中にあなたの自由がある。なぜなら、あなたの自由は神の中にあるからである。
自由とは、神の子の本性と神の本性を認めることであり、神の子らにあなたが差し出せる唯一の贈り物である。自由は愛であるから、それはすなわち創造である。
と書かれているところがあります。
身体の自由ではなくて(そもそも身体とは制限のこと)、心の自由。
わたしは、身体などではなく、永遠のスピリット。
ほんとうに、ほんとうに、、、それを受け入れているだろうかと考えさせられ、また、抵抗していることをはっきりと気づかされた1日でした。
最近太ってしまって、今朝、「この贅肉なんとかならないのかな」と、真剣にではなく、なんとなくふと思ったあと、今日のレッスンは何だろうと思ってワークブックを開くと、「わたしは身体ではありません。わたしは自由です」。
ああ、ほんとうに、学ばなければ、と思いました。
自我にとってはこのアイデアがまったく狂気であるということを気にすることはありません。自我は身体を大事だと考えていますが、それは、自我が身体の中に住み、自らがつくった住み処と一体となって生きているからです。身体は、自我が幻想であることを発見されないようにと、自我が自らをかくまう場所としてつくり上げた幻想の一部です。
と第3段落で述べられています。
この身体は、ホーリースピリットに託して、学びのために使ってもらい、これを自分だと思わず、これにしがみつかず、真実に心を開きたい、全開でいたいです。
贅肉がどうのこうのと、言っている場合ではありません。笑
愛
『奇跡のコース』のワークを学ぶ
ガイドブック8 豊かさの力学/
香咲弥須子/ナチュラルスピリットより
引用させていただきました。
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4周目として取り組んでいるわたしの、
あくまでもごく個人的なものです)
テキスト編、ワークブック編、教師のマニュアル編があります。
(こちらのブログでは詳細については記載しておりません)