奇跡のコース』ワークブック・レッスンの気づきを綴っています
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Lesson181:わたしは、わたしとひとつである兄弟たちを信頼します。

 
とても大切なレッスンだと感じました。

さらっと読んでしまいそうで、でもとても大事なことは、冒頭の

自分の兄弟たちを信頼することは、自分に対する疑いや確信のなさを超えられる自分の能力に対して、信頼心を確立し維持するうえで、きわめて重要です。

というところ。

自分に対する疑念や確信のなさを超えられる、自分の能力を信頼し続けるには、兄弟たちを信頼すること。

わたし=神の子、愛そのものだという真実に確信を持つためには、他者を信頼すること。

自分の思考のなかだけでは、「わたし=この身体」という幻想を超え、「わたし=神の子」という真実にたどり着くことはないということを、忘れてはならないと思います。

 

兄弟の罪に焦点を合わせるのをやめれば、罪のなさを信頼することから生まれる平和を経験します。この信頼は、その人たちの中にあるものを彼らの罪を超えて見ることで、唯一のゆるぎない支持を得るのです。その人たちの間違いに焦点を置くなら、それがあなたの内なる罪の証拠となります。だからあなたは、そこに見えるものを超えてその向こうにある罪のなさを見ることはありません。

と、第2段落で述べられています。

 

「罪」というと、犯罪など、法を犯すこと、大きな過ちをイメージしがちですが、相手を否定的に見たり、批判したくなったり、たとえほんの少しでも相手に苛立ちを感じるとしたら、それはやはり、相手に罪を見ていることになると思います。

以前どこかのレッスンのときに書きましたが、指名手配犯のポスターを見たときに、「うわっ、人相わるっ!」と感じたことがありました。歩きながら一瞬そう思っただけのことでしたが、それでもわたしは間違いを犯したのであり、そこには犯罪者に対する冷たい思いがあったに違いなく、自分のなかの――ひた隠しにされている――分離への罪悪感を投影したのだから、訂正が必要でした。

歩きながらでしたが、ホーリースピリットに訂正をお願いしました。そのあと奇跡を経験したのですが、たとえばほんのちょっとしたことでも、丁寧に訂正を祈ることが大切だと思いますし、残酷な事件についてのニュースを見ても、やはりそこで被害者を憐れみ、加害者に怒りを感じて裁く・・ということをするのではなく、すぐさまそこで、加害者の罪のなさを、この世界でのことを通り超えて見せてもらうこと、神聖性を受け取らせていただくことが大事で、被害者を傷つき得る存在として見るのではなく、そこにたとえば「死」を見るのではなく、永遠性を、永遠のスピリットであるという本当の強さと清らかさを見せていただくこともまた大切なのだと思います。

そして、日常の些細なことでも、同じように、罪のなさを見ていくこと。たとえば同僚のAさんのサボり癖に苛立っているとしたら、そこに罪を見ているわけですから、やはり訂正が必要です。

初めてテキストを読んだときに衝撃を受けた箇所はいくつもありますが、そのなかでも第9章第Ⅲ節についてはかなりインパクトがあった箇所です。

出だしはこうです。

他の自我の誤りに対する自我の目敏さは、聖霊があなたに身につけさせたい種類の警戒とは異なる。自我は自分が支持する類いの「良識」という観点から、批判的である。この種の良識は自我にとっては理にかなっているので、自我はそれを理解できる。聖霊にとっては、それはまったく意味をなさない。

(『奇跡講座 テキスト編』/中央アート出版社)

たしかに、自我はめざとい。
他者の間違いを見つけるのが早いし、それを正すことが大事だと思っています。

兄弟を正そうとするとき、あなたは彼が間違っていると告げている。その時点で彼は意味の通らないことを言っているかもしれない。そして、彼が自我から語っているのであれば、彼が意味をなさないことは確実である。しかし、それでもあなたの任務は、彼は正しいと彼に告げることである。彼が愚かなことを言っているのなら、あなたは彼が正しいと言葉で告げることはしない。彼の誤りは別なレベルにあるので、彼には別なレベルの訂正が必要である。それでも彼は神の子であるから、依然として正しい彼の自我は、何を言っても、何をしても、常に間違っている

同じく第9章第3節です。マーカー部分はわたしが引いた箇所です。

 

兄弟の罪なさを見なさいと言われると、「でも犯罪者は・・・?」という思いが出てきたり、「でも、この人は明らかに間違っているし、周囲のみんなもそう思っているんだけど・・・」といった考えが浮かぶかもしれません。わたしは、かつてはそのような思いを持っていました。

この世界で何をしてもいいと言っているわけではないし、犯罪を認めているわけでもなく、自我が何をしようと、分離を選んでいる以上(そのような実際には起きていないことが起きたかに見えている夢を選んでいる以上)、みな間違っているのだということを教えてくれているのです。

その間違いの数々は、実際にはただの一度も起きてはいないのに、そのひとつひとつを取り上げて裁くとしたら、それが確かに実在していることだと言っているのと同じことになります。間違いは間違いであって、そこに「良い」も「悪い」もないのでした。

「罪のなさを見る」というのは、だから、Aさんの犯罪を、自分のなかで「情状酌量」にするわけではないし、目をつぶることにする、ということではなく、「犯罪者Aさん」というのは、肉眼ではそう見えていても、実在せず(つまり「分離」など起きてはおらず)、その人ももちろん「神の子」なのだという真実を思い出したい、その輝きを見せてもらいたいと思うこと、「無罪性」という神の意志を思い出したいと祈ることなのです。

 

兄弟の自我の誤りを指摘するなら、あなたは自分の自我を通して見ているに違いない。なぜなら、聖霊は兄弟の誤りを知覚しないからである。自我と聖霊の間にコミュニケーションはないのだから、これは間違いなく真実である。自我は意味をなさないものであり、聖霊は自我から生じるいかなるものも理解しようとはしない。聖霊はそれを理解しないので、それを裁くことはせず、自我が作り出すものには何の意味もないと知っている。

(第9章第Ⅲ節の3段落目)

 

外側の無罪性(Aさんが行ったことの間違い)を見ようとするのではなく、内なる無罪性を見ること。
それは、やってみようという意欲をもって、祈ってみないとわからないことです。

オウムの事件に関与していた人たちの死刑が今年執行されましたが、そのときも、わたしは祈りました。やっと死んでくれた、ではなく、死刑はひどい、でもなく、この世界を超えて、彼らの神聖性を見させていただくことが、唯一、わたしにできることだからです。

奇跡は、訂正は、わたしがすることではありません。イエスが、ホーリースピリット(聖霊)が、してくれます。
そして、そこでビジョンを受け取ることになります。

もし一度もでも受け取ったなら、もう、「だって犯罪者を赦すなど、無罪性を見るなど、おかしいじゃないか」とは思えません。

残酷な事件に関することだけでなく、日常でも、周囲の人のちょっとした過ちにイライラし続けたり、責めたり、なんとかあの性格を正さなくては!と必死になる必要性がないことがわかるようになります。

 

兄弟が正気でないでない行動をしているとき、あなたは彼の中に正気を知覚することによってしか彼を癒すことはできない。あなたが彼の誤りを知覚し、それを受け入れるなら、あなた自身の誤りを受け入れていることになる。あなたが自分の誤りを聖霊に預けてしまいたいのなら、兄弟の誤りについてもそうしなければならない。このやり方ですべての誤りを扱うようにならない限り、あなたはすべての誤りがどのようにして取り消されるのかを理解できない。

(第9章第Ⅲ節の5段落目)

 

ニュースを見て、そのこと自体を「これはなかったこと」として無理に否定しようとする必要はなく、内側に戻ることが何より大切だと感じます。

誰の、何においても、その行為に目を向けるのではなく、ありのままを見ることができるように、神の子としての神聖性を見せていただけるように祈り、兄弟を心から信頼すること。それを忘れずに続けていきます。

Blessings,
 
2018.10.28
 
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ワークブックレッスン日本語版は、
『奇跡のコース』のワークを学ぶ
ガイドブック7 永遠の生命/
香咲弥須子/ナチュラルスピリットより
引用させていただきました。
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(ワークブックのレッスンでの気づきは、
4周目として取り組んでいるわたしの、
あくまでもごく個人的なものです)
 
 
 
A Course in Miracles(ア・コース・イン・ミラクルズ)には
テキスト編、ワークブック編、教師のマニュアル編があります。
日本語版は、中央アート出版、またはナチュラルスピリットから出ています。
 
ワークブックのレッスン内容の詳細については、ワークブック編をお読みください。
(こちらのブログでは詳細については記載しておりません)
 
 
 
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