奇跡のコース』ワークブック・レッスンの気づきを綴っています
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ゆるしについて、詳しく述べられているレッスンです。
この「ゆるし」について、勘違いをしないように注意を促してくれているレレッスンだと思います。
これについては、ジョン・マンディさんの著書でこのように述べられているところがあります。
自我を、他人よりも清い位置に据え置き、その場所から、誰かがときどき犯したであろう間違いをゆるすことにより、自我は罪を経験します。誰かの罪を目撃することは、それが現実であるという証になるのです。私たちは罪を実在のものにすれば、ゆるすことができなくなります。ゆるしには、逆の発想が必要です。自我を伴うゆるしとは、ゆるしではなく、ゆるしを装った批判です。過ちを見れば見るほど、私たちはそれを実在化し、見過ごすことができなくなります。
私たちは、ゆるしはしても、その罪人が罪を犯したことは覚えています。それは罪を生かしておくことにほかなりません。コースでは、そのような状況は乗り越えなくてはならないと言っています。これはどう考えても容易なことではなく、かなりの努力が必要です。しかし、兄弟が犯した罪という現実を確信すれば、そこに神の顔を見ることは不可能です。
(『『奇跡のコース』を生きる 入門から実践まで/ジョン・マンディ/香咲弥須子監訳/ナチュラルスピリット)
ケネス・ワプニックさんの本では、
私たちが他人を赦すことを選ぶという選択は、自分自身を赦すという選択と同じものです。
『コース』ははっきり断言していますが、赦しは私たち自身で実行することはできないものであり、聖霊によって私たちを通して為されるものです。
真の赦しが可能となるためには、まず最初に、私たちが「自分は決して傷つくことのない存在だ」という信念を持ったうえで、その中で赦しが培われていかなければなりません。つまり、それは、私たちはこの世界の中の誰によっても何によっても危害を加えられることはあり得ないという信念ですが、そのような信念を持つことは、少なくとも、自分を創造してくれて、自分を愛してくれている神が存在するということを私たちが知っていない限り、不可能です。
(『奇跡講座入門 講話とQ&A』/ケネス・ワプニック/加藤三代子訳/中央アート出版社)
と述べられています。
相手の罪を見て、それを「まあ、仕方がない」だとか、「大目に見てやろう」と言って水に流すのは、コースの言う「ゆるし」ではないのでした。
テキスト第9章Ⅳ節ではこのように述べられています。
自我にもまた赦しの計画がある。なぜなら、あなたがそれを求めているからである。…(中略)…自我の計画は、まずあなたに誤りをはっきりと見せてから、その誤りを見過ごさせるというものである。だが、自分で実在すると思い込んだものをどうやって見過ごすことができるだろうか。
聖霊を通しての赦しは、単に、最初から誤りを超えたところを見ることにより、誤りをあなたにとって実在しないままにしておくことにある。…(中略)…結果をもたらさないものは存在しない。そして聖霊にとっては、誤りの結果は存在していない。あらゆる場所とあらゆる側面において、その結果を着実に、首尾一貫して取り消すことにより、聖霊は自我は存在しないと教え、それを証明する。
(『奇跡講座 テキスト編』/中央アート出版社)
何があっても、自分を被害者扱いしないこと。そして、自分でゆるしをおこなおうとしないこと。
ホーリースピリット(聖霊)に助けを求め、ホーリースピリットのまなざしで見ることができるよう、実在しているものだけを受け取ることができるよう祈ること。
いつかのレッスンのときにも書きましたが、与えるというのは、神聖性を見させていただくことだと感じます。
見させていただくのだから、それは受け取ることなのです。
今日のレッスン7段落目。
救いを得る手段としての真のゆるしは、それを与える心を必ず癒します。与えることは受け取ることだからです。
わたしがさせていただけることは、「ゆるし」のみでした。
自我のゆるしの計画に乗るのではなく、ホーリースピリットの導きにそって、ゆるしを続けていきたいです。
愛
『奇跡のコース』のワークを学ぶ
ガイドブック5 神の教師/
香咲弥須子/ナチュラルスピリットより
引用させていただきました。
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4周目として取り組んでいるわたしの、
あくまでもごく個人的なものです)
テキスト編、ワークブック編、教師のマニュアル編があります。
(こちらのブログでは詳細については記載しておりません)