奇跡のコース』ワークブック・レッスンの気づきを綴っています
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このレッスンは、「ゆるし」に関して、これまでよりさらに深く述べられていると感じました。
どの部分も大事だとおもいますが、とくに印象的だったところ、忘れたくないと感じたところは、
ゆるしとは、習得されるものです。心に本来備わっているものではりません。心は、罪を犯すことなどできません。罪とはあなたが自分に教えた概念ですから、ゆるしも同様に、自分で学ばなければなりません。しかし学ぶのは、自分自身からではなく、あなたの内なるもうひとつの自己=真の自己を象徴する内なる教師からでなければなりません。
という箇所(6段落目)です。
ゆるしとは、習得されるもの。もし、自分が「わかっている」気になっていて、自分が知覚するものを真実だと思い込んで疑ってもみないとしたら、間違ったアイデンティティをずっと大事にし続けることになります。
くらい罪悪感から、ずっと逃れられることはなく(自分でそれを抱くことを選んだからです)、つねに自他をジャッジして、痛みを感じずにはいられません(❝すべての攻撃は自己攻撃❞だからです)。
あらゆる悩み、問題は、自分がゆるさないからこそ、抱くことになった痛みなのですよね。
そしてとても重要なことは、ゆるしについての学びを、自分でできると思わないこと。自分の頭で判断して理解できるものだと勘違いしないこと。
内なる教師、真の自己、ホーリースピリットをとおして学ぶこと。これを忘れてはいけないと思います。
ワークでは、1回目におこなったときは、3人が1つになる感覚がありました。それも、全員で喜び合い、讃え合っているという感覚。誰が誰なのか、という個体の区別というものはまるでありません。みんな同じでした。
2回目におこなったときは、自分を探さなくていいんだと感じられました。自分というのは、境界線があるのではなく、性格があるわけではなく、むろん身体などではなくて、スピリットなのです。どこかに居る、のではなく、すべてなのでした。
ちなみに、ゆるしについては、テキストでこのように述べられている箇所があります。
赦しとは、分離しているという知覚を癒すことである。心が自らを分離したものと見ることを選んだので、兄弟についての正しい知覚が必要となっている。
(『奇跡講座 テキスト編」第3章/中央アート出版社)
また、こう書かれているところもあります。第1章です。
平安を望むあなたは、完全な赦しによってのみ、それを見つけることができる。どのような学びも、それを学ぶことを望み、自分にはそれが必要だと何らかの形で信じていない限り、誰にも習得されることはない。
ここは、今日のレッスンで述べられていることと関連しています。
心穏やかではないということは、ゆるせていないということ。ゆるさないことを選んでいるということ。
それは、とても、もったいない生き方だなとおもいます。
「ゆるせない」のではなく、「ゆるさない」と誓っているのだという、その病んだ思考こそ、ゆるされるべきです。
それを、自分でやるのではなく、内なる教師にゆだねるのでした。
起きたことを仕方なくゆるすのではなく、起きたかに見えて、実は起きてはいない、分離などない、神聖性しかないという真実を、しずかに受け入れるプロセスを、大事にしたいです。
愛
『奇跡のコース』のワークを学ぶ
ガイドブック5 神の教師/
香咲弥須子/ナチュラルスピリットより
引用させていただきました。
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4周目として取り組んでいるわたしの、
あくまでもごく個人的なものです)
テキスト編、ワークブック編、教師のマニュアル編があります。
(こちらのブログでは詳細については記載しておりません)