『奇跡のコース』ワークブック・レッスンの気づきを綴っています
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Lesson35:わたしの心は神の心の一部です。わたしは真に、神聖です。
 
 
自分自身についてどう見ているかを挙げていくワークでしたが、自分に対する肯定的な見方も否定的な見方も、人やモノを比較して見る(ジャッジする)ときの材料になっているんだなとおもいました。
 
自分をどうジャッジしているか、その判断のポイントが、人をジャッジするときの基準(?)になっているような気がしたのです。
 
自分を前向きと見るなら、誰かを後ろ向きだと見ることになるし、自分をバカだと見るなら、誰かを聡明だと見ることになる。自分をジャッジすることは、同時に、人をジャッジする(差異を見る、分離を選ぶ)ことになる・・・。その無意味さを感じました。
 
3回目におこなったときは、身体を抜け出るような感覚になりました。意識が360度に拡がって、「わたし=この身体」という感覚がなくなっていく――。とても平和な心地がして、しばらくそのまま、あじわっていました。
 
日中、何かを思ったり感じたりするたびに、自分に対する言葉を拾い――それは基本的に自己否定的な言葉ばかりでしたが――、今日のアイディア「でも、わたしの心は、神の心の一部です。わたしは真に神聖です」と当てはめると、たいていは、とても心地よく、穏やかな感覚がしました。
 
たまに自分に対する肯定的な言葉が浮かんできたときは、そのすぐ後で「でも、わたしの心は~」と続けることに、一瞬、「え?『でも』なの?」とためらう自分がいることに気づきました。
 
これはとても面白かったです。自分をいいように見ているとき、その勝手な見方、アイデンティティを大事にしたがっているらしいことがわかったからです。
 
・・いえ、どうでしょうか、否定的な見方をしているときだって、実はそれを大事にしたがっているようにも感じられます。実際、ひどく自己否定的なのですから。
 
こんなあやふやな自己イメージを大事にしているとは、正気とは言えません。笑
ぼさっとしていると、分離することを選んでしまう。
 
 
不思議だったのは、道を歩きながらでも、何をしていても、今日のエクササイズをしていたのですが、「わたしの心は、神の心の一部です。わたしは真に神聖です」と言っているとき、自分自身のこととして言っているだけではなく、道行く人、目に入るモノたち(歩道、ゴミ、柵、ビル、テーブル・・などなど)に対しても言っているように感じられたことです。
 
わたしの心がそうであるなら、全部が同じように神の心の一部であり、神聖であるはずです。言葉で表現しづらいのですが、このエクササイズは、「個」という意識を超えていくものだと感じました。
 
4回目の長めの練習のときは、後半、とてもしずかでした。思考がなくなって、「ただ在る」、という感覚。「わたし」という枠に収まっていない状態、わたしは全体に在る、全体に拡がっている、全体がわたしそのもの。そういった感覚でした。
 
この安らかさをこそ、大切にしたいです。
 
 
Blessings,
 
2018.6.4
 
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ワークブックレッスン日本語版は、
『奇跡のコース』のワークを学ぶ
ガイドブック2 知覚のとびらをあけて/
香咲弥須子/ナチュラルスピリットより
引用させていただきました。
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(ワークブックのレッスンでの気づきは、
4周目として取り組んでいるわたしの、
あくまでもごく個人的なものです)
 
 
 
A Course in Miracles(ア・コース・イン・ミラクルズ)には
テキスト編、ワークブック編、教師のマニュアル編があります。
日本語版は、中央アート出版、またはナチュラルスピリットから出ています。
 
ワークブックのレッスン内容の詳細については、ワークブック編をお読みください。
(こちらのブログでは詳細については記載しておりません)
 
 
 
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