『奇跡のコース』ワークブック・レッスンの気づきを綴っています
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Lesson31:わたしは、わたしの見ている世界の被害者ではありません。
 
 
まず外側を見て当てはめ、そのあと内側にもこれを当てはめるというワークでしたが、外側を見るときは、「すべて同じ」、しずかな、あたたかなものが感じられ、
 
内側でのあらゆる思いに当てはめていったときは、だんだん思考することがなくなって、ただ平安を感じる時間が続く・・という感じでした。
 
内側で当てはめていくワークでの最後に、「みんなで奇跡を経験したい」という思いがふわっと浮かんだときもありました。
 
 
歩いているときも、今日のワークを何度も繰り返してみました。ゆっくりと見渡しながら「わたしは、わたしの見ている世界の被害者ではありません」と言い、何か思いが浮かんできたら、その思いを広げずに「わたしは、わたしが見ている世界の被害者ではありません」と言ってみました。
 
一日中、被害者意識を持って過ごしているわけではない・・と思えても、ちょっとした考え(本当は「ちょっとした」考えなどありませんが、笑)が浮かぶたびにこれを言ってみることで、微かにそこに「不満」が見え隠れするのを感じたときもありました。
 
あれ・・?これはもしかして、「不満」・・?
 
たとえば、過ぎたことを思い返して、「わたしの何がいけなかったんだろう、何か良くないことをしただろうか」と考えることや、今後のことについて、「何をしておけばいいんだろう、どうすればうまくいくんだろうか」と考えることも、
 
あるいは誰かのことについて、「どうしてああいうふうなんだろう、よくわからない」と思うこともみな、「不満」そのものだと言えるのではないかとおもいます。
 
信頼していない、これが必然で最善だと受け入れていないから、ほんとうの完璧さを見ようとしていないから、自分に対してであれ、他者や何かの物事に対してであれ、「足りないところ」を探すのでは?
 
そしてその欠落をいちいち指さして責め立て、それをなんとかすることが「善」、あるいは「必要」なのだと思い込んでいるのでは?
 
しかも「欠けているところ」がある理由を、自分の内側ではなく外側に見ているせいで、自分を被害者として見なしてしまう。
 
 
もし、すべては完璧なのだということを受け入れて、信頼することができていたら、雨が降ろうが、自分に欠点があろうが、他者がどんな態度をとっていようと、そこに欠落を見ることはないし、責め立てたり嘆いたりするはずがなく、だから自分を被害者だと盲信することもなく、ただずっと、ずーーーっと、平安のなかにいられるはず・・・。
 
微かな不満に敏感になっていたいです。
そして、ほんとうの完璧さを見たいです。
 
 
デイヴィッド・ホフマイスターの著書『覚醒へのレッスン 『奇跡のコース』を通して目覚める』のなかの一節が目に飛び込んできました。
 
コースが言っているのは、あなたが過去や未来について考えているとき、あなたの心は空っぽだということです。心が過去の思いに縛られて、それを投影しているからです。まさにそれが世界です。世界は文字通り、わたしたちの心にある過去の思考が形ある世界へと投影されたものです。ですから、肉眼で見えるものに動揺するのは当然なのです。過去の不平不満が形になったスクリーンを見ているのですから。
 
 
 
「何をおいても、わたしは見たい」。
 
Blessings,
 
2018.5.31
 
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ワークブックレッスン日本語版は、
『奇跡のコース』のワークを学ぶ
ガイドブック2 知覚のとびらをあけて/
香咲弥須子/ナチュラルスピリットより
引用させていただきました。
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(ワークブックのレッスンでの気づきは、
4周目として取り組んでいるわたしの、
あくまでもごく個人的なものです)
 
 
 
A Course in Miracles(ア・コース・イン・ミラクルズ)には
テキスト編、ワークブック編、教師のマニュアル編があります。
日本語版は、中央アート出版、またはナチュラルスピリットから出ています。
 
ワークブックのレッスン内容の詳細については、ワークブック編をお読みください。
(こちらのブログでは詳細については記載しておりません)
 
 
 
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