『奇跡のコース』ワークブック・レッスンの気づきを綴っています
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Lesson27:何をおいても、わたしは見たい。
 
 
このレッスン27にくるまでに、わたしのなかで「見たい」という思いが、強くなってきていたので(それはワークブックに取り組んできて、4巡目にして初めてのことでした)、この「何をおいても、わたしは見たい」は、たしかに、わたしの願いでした。
 
ワークの説明のところに、「少なくとも30分に1回、できればもっと頻繁に15分か20分に1回、復唱してください」と書かれています。
 
初めてこのレッスンに出合ったときは、「見るって、だから何を??」と感じたことを憶えています。「だから」と出てくるのは、レッスン20「わたしは、見ることを決心しています」のときも、何を見る決心なのか、わからなかったからです。
 
4巡目の今日は、まったく別な気持ちがしていました。はじめから、「見たい」という思いでしたし、
 
今日のレッスンは、単なる決意よりも強いものを表明しています。あなたのいくつもある欲望の中で、本当に見ることを最優先にするものです。
 
 
出だしのこの二文が、とても心に響きました。こんな重要なことが、書いてあったっけ?と不思議に思うほど、これまではちっともこの二文を大切に受け取ったことがなかったのです。
 
どんな欲求、願い、渇きより、何よりも「本当に見る」ことを望む。選ぶ。決める。表明する。わたしはたしかに、もうそれだけなのだという気持ちでいましたから、怖さがありませんでした。
 
それで、10分おきくらいで――ときにはずっと――「何をおいても、わたしは見たい」を復唱し、ただ呪文か何かのように、形だけやっているということにならないように、
何かが目に入るたびに(つまり「ずっと」なのですが)「何をおいても、わたしは見たい」と言い、どうでもよい思い(自我の、個人的な考え)が浮かぶたびに、その思いに対して「何をおいても、わたしは見たい」と言い続けてみました。
 
タバコの吸い殻、チューインガムの包み紙、ガムの固まって黒くなったもの、電柱、すれ違う人たち、植物、ガードレール、ビル、看板・・・すべては「同じ」でした。同じものを、受け取ることができました。
 
くだらない考え、過去か未来に走る思い、心配、算段・・・そうした思いたちは(ニュートラルな思いがないということを、レッスン16で学びました)、みな愛のなかに溶けていきました。愛を隠していた覆いが、取れてゆき、愛に還っていったような、そのような感覚です。
 
駅からサロンまでの、6、7分くらいの距離を歩いているだけで、わたしの心は喜びに満ちていて、とても豊かでした。
ああこんなにも、幸せなんだ。こんなにも、受け取らせてもらえるんだ。
そのような気持ち、感謝の思いでいっぱいでした。
 
これからも丁寧に・・ほんとうに見ることを願い、恵みを受け取り続けたいとおもいます。
 
 
何をおいても、わたしは見たい。
 
 
 
Blessings,
 
2018.5.27
 
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ワークブックレッスン日本語版は、
『奇跡のコース』のワークを学ぶ
ガイドブック2 知覚のとびらをあけて/
香咲弥須子/ナチュラルスピリットより
引用させていただきました。
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(ワークブックのレッスンでの気づきは、
4周目として取り組んでいるわたしの、
あくまでもごく個人的なものです)
 
 
 
A Course in Miracles(ア・コース・イン・ミラクルズ)には
テキスト編、ワークブック編、教師のマニュアル編があります。
日本語版は、中央アート出版、またはナチュラルスピリットから出ています。
 
ワークブックのレッスン内容の詳細については、ワークブック編をお読みください。
(こちらのブログでは詳細については記載しておりません)
 
 
 
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