『奇跡のコース』ワークブック・レッスンの気づきを綴っています
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Lesson16:わたしには、ニュートラルな思いはありません。
 
自分のなかの思いを見て、ひとつひとつ、その思いがニュートラルではないということを当てはめていくワークでしたが、たとえば健康に関すること(からだを冷やさないようにしよう、健康的な食事にしよう、など)で、一見前向きな思いであっても、これはよく見れば(よく見なくとも)、防衛していることがわかります。
 
怖がっているんだということに気づきますし、身体に対する思い(わたし=この身体というアイデンティティ)は、それにしても強固なものだと認めざるを得ません。
 
あらゆる思考は、平和か争いのどちらかを、愛か恐れのどちらかを生み出す
 
 
と、今日のレッスンのところで述べられています。
 
「あの人にこれを言ってあげよう」だとか、「あの人は元気にしているんだろうか」といった考えも、表面的にはプラス(?)の思いに見えても、その下の層の思考を見ればわかりますが、結局自分を守るための考えで、さらにたどってみると、恐れがあることに気づきます。
 
世間で言われているような、「良い考え」、「悪い考え」というふうに見るのではなくて、愛に根差しているのか、恐れに根差しているのか、どちらか。
 
恐れに満ちているのに、それを隠して正当化することって、存外頻繫におこなっているかもしれません。「あなたのためを思って」などというのは、典型的なものではないでしょうか。
 
 
話を戻しますが、健康に気を使うこと自体はいけないことではないけれども、気にしている理由は何なのかと言えば、病気になるのが怖いからで、病気になるのがなぜ怖いのかと言えば、死ぬのが怖いからです。
 
死を恐れるということは、死が実在すると思っているからで、死が実在すると考えているということは、肉体が自分なのだと思い込んでいるということになります。
 
結局のところ、やはりアイデンティティの問題ですね。
 
 
今日はほかにも、あれこれとどうでもいい考えが浮かんできていましたが、いったい何をそんなに恐れているんだろうかと内観してみたときに浮かび上がってきたのは、「神の裁きを恐れている」というものでした。
 
間違ったことはしたくない、人を傷つけるようなことはしたくない。あることについての思いを掘り下げてみると、そういった想いがあることに気づいたのですが、そんなふうに気にしてしまう理由が、「神の裁き」が怖いからだ、ということだったのです。
 
ああ、そこなんだ、、とおもいました。むろん、裁いているのは自分だけなのですが。
この、自分を裁く思いというものは、それにしてもしつこいです。笑
 
 
ワークをしていてそのような気づきがあったときもありましたが、ある人たちのことで、祝福の思いに満ちていたときは、その思いが浮かんでいるときから、自分自身が祝福されているような、あたたかい気持ちになるときもありました。
 
この感覚が、きっと、「与えることと受け取ることは同じ」ということなのではないかなと感じました。ただ祝福させてもらっているとき、わたし自身が祝福を受けているのです。これは同時でした。
 
思いに中庸はないということを、忘れずにいたいです。
ホーリースピリットとともに思う思いだけを、大切にしたいです。
 
 
 
2018.5.16
 
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ワークブックレッスン日本語版は、
『奇跡のコース』のワークを学ぶ
ガイドブック1 わたしは何も知らない/
香咲弥須子/ナチュラルスピリットより
引用させていただきました。
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(ワークブックのレッスンでの気づきは、
4周目として取り組んでいるわたしの、
あくまでもごく個人的なものです)
 
 
 
A Course in Miracles(ア・コース・イン・ミラクルズ)には
テキスト編、ワークブック編、教師のマニュアル編があります。
日本語版は、中央アート出版、またはナチュラルスピリットから出ています。
 
ワークブックのレッスン内容の詳細については、ワークブック編をお読みください。
(こちらのブログでは詳細については記載しておりません)
 
 
 
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