明けましておめでとうございます。

昨年ご一緒してくださったみなさま、ありがとうございました。たくさんの贈り物に満ちた2024年、とても幸せに過ごすことができました。

みなさんの意欲と、正直さと、慈しみの心に、何度胸打たれたかわかりません。本当にありがとうございました!
本年もどうぞよろしくお願いいたします・.*

そして、新しくご参加くださる方々との分かち合いも、とても楽しみにしています♪
しばらくヴェリテのクラスをお休みされていた方の復帰も、もちろん大歓迎です♡

——これだけは誓って言えること。
それは、兄弟愛は変わらない、ということだなと感じています。

コースを学ぶようになって、いっそう自分のなかで確立されたことは、どう思われるかは重要じゃない、ということです。人がどう思うかは、その人が自分で決めていることであって、大事なことは、自分が相手をどう思っているかだけです。

わたしが相手を、ひとを、どう思うか。
もちろん、それはどなたのことであっても<同じ>です。この、<同じ>だと言えることが——実際に<同じ>になったことが——、コースを学び、実践することによって受け取れる“贈り物”であって、<同じ>でなければ、心は痛みを経験してしまいます。

家族や友人、とても近い人でも、ヴェリテでご一緒している方々でも、そうでないコース仲間の方々でも、ご近所さんでも、名前の知らない方々でも、どなたであっても、「どう思うか」は<同じ>

 
わたしにとって、「どう思うか」という言葉の意味は、「どう価値判断しているか」ではなくなったのですが(だから、「いい人」だとか「苦手な人」だとかいった区分がないのです)、それはなぜかと言うと、ワークブックの取り組みを通して、イエスの教えに従い続けてきたことによって、どなたの中にも<同じ>ものが見えるようになったからです。

もし自我と同一化していたら、「どう思うか」は、相手によって、日によって、時と場合によって、さまざまに変わるものですが(自我は常に不安定です)、聖霊と共に見ているなら、どなたであれ、“兄弟”であり、“救い主”であって、本性は“神の子キリスト”であり、このほかに思う「何か」など、ないのです。
 

どういうわけか、末吉愛の人生は、ア・コース・イン・ミラクルズの教えを分かち合って生活していくものになってしまいました。そうしようと考えたことは一度もないし、憧れたことさえ一度もありません。そのような野心はどこにもありませんでした(もしあったら、こうはなっていなかったと思います)。

和歌山の田舎の学校で教師をしていて、生徒たちが大好きで、このまま教師半分、セラピスト半分の生活を続けていくのかなぁと、ぼんやりと思っていた程度でした。

イエスがわたしにさせたいことだけをしたい
いつからか、わたしの望むことはこれだけになっていました。そして、気づいたら、今の生活スタイルになっていました。

 
この生き方には、相当な覚悟がいるんじゃないかと思ったときがありました。小冊子の「精神療法」に、

セラピストは、患者の自画像という、患者が最も大切にしている所有物を攻撃する者と見なされる。そして、この自画像は、患者自身の知覚においては彼の安全となっているので、セラピストは、真の危険の源と見なされるしかない。攻撃すべき相手や、殺すべき相手とすら見なされるのである。

P-2.IV.9:5,6/『奇跡講座 下巻』中央アート出版社

 
このように書かれているからです。

中高一貫校の教師をしていた20代の頃から、<覚悟>はありました。それがどんな形をとるとしても、相手(生徒)の心の思いを必ず受け止める覚悟です。

つまり、それは、相手が攻撃的であったとしても、そのレベル(自我)で返さない覚悟であり、相手の態度によって自分の態度を変えない覚悟です。ここを変えるようでは、<教師>失格なのです。

 
20代の頃から、わたしの中では、<教師>というのは、<常に愛だけを愛によって示す者>のことでした。学校の教師はたった10年しかしていませんでしたが、それでも、相当な訓練期間だったと思います。

けれども、それよりももっとハードルが上がる訓練が、ACIMのteacherです。よほどの覚悟と鍛錬の土台がないと続けられないと思います。真似っこ、「ごっこ」など、通用しませんから。
  

先ほど引用した箇所をもとに言えば、「わたしを攻撃している!」と知覚されることは往々にしてあることでしょうし、ある意味、投影の標的にされやすいのだろうと思います(わかりやすく表現しているだけで、もしそう知覚したとしたら、それはわたしの「問題」です、実際のところ、標的にされたと思ったことは一度もありません、そのような経験自体ありません)。

そして、それでも、まったく変わらず、<常に愛だけを愛によって示す者>でいること、これを、無論、「自分で」ではなく、聖霊と一致していることによって体現することが必要とされるわけです(心の訓練です)。

 
わたしには、たとえ何が飛んできても、「ありがとう。わたしはあなたを永遠に愛しています」と、言い切れる思いがあります。今のところ、恐ろしいものは飛んできたことがありませんが(笑)。
究極は、やはりイエスがお手本ですから、たとえ十字架にかかることになろうとも、「ありがとう。わたしはあなたを永遠に愛しています」と、イスカリオテのユダのような人物がいてもなお、変わらずこの心でいることです。

だから、ヴェリテを去る人がいても、わたしのなかの思いは変わらず、「ありがとう。わたしはあなたを永遠に愛しています」のままで、兄弟愛は不変のものであって、戻ってくる人がいても同じで、形態のレベルは何も重要じゃないと確信を持って言えます。

 

何年か前、「わたしはまだ趣味とか、好きなことをやりたいので、コースからいったん離れます」と言って、クラスを辞められた方がいらっしゃったのですが、はっきりそのように言えるほうが、むしろ美しいと思ったことがあります。綺麗事でまとめず、自分の中に個人的欲求があるんだと認めているほうが、実は<順調>なのです。

まず、ここを認めることができて、やっと、「本当にこれがわたしを幸せにするのだろうか」と、問うことができるから(真に自ら疑問視できるようになるから)です。
 

↑この、コースの教師 マリア・フェリーぺさんの著書『願いはすべてホーリースピリットが叶えてくれる』に、次のようなメッセージが記されています。

はっきりさせておきましょう。愛に逆らうようにわたしたちがつくった障害を探り、見つける作業は、決して楽しいことじゃありません。悲しみ、あきらめ、恐れ、喪失といった感情と直面しなくてはならないし、そうした感情すべてに責任を持たなければならないからです。

自分が自分にしてきた最悪のアドバイスの代わりに、内なる教師の声を信頼することを学ぶ必要があるの。簡単に言えば、自分を超えるということね。人を操作するのをやめ、自分の望む結果を自分のやり方でなんとかつくり出そうとするのをやめなければなりません。

とりわけ大切なのは、“外側に”幸せを探すのをやめること。自分の外に幸せは決して見つからないからなのよ。

フォレスト出版

 
タイトルと、このメッセージにギャップを感じるかもしれませんが、このメッセージは確かなことですよね。ホーリースピリットが叶えてくれるというのは、いわゆる願望実現の話ではなくて、わたしたちが真に求めてきた<幸せと平安>のことであって、それは、先ほどの「精神療法」の引用箇所に触れて言うなら、「自画像」の放棄によって——つまり真の自己、キリストというアイデンティティーを受け入れることによって——達成されます。

コースの学びは、マリアがはっきり言っているように、向き合う過程においては楽しいものではないでしょう。だから途中でコースをやめたくなる人もいます。

けれども、自ら疑問視できるようになれば、イエスの教えは本当のことだと、誰もが必ず素直に受け入れられるようになります。

 

この過程を、真の覚悟をもって、永遠に変わらない兄弟愛をもって、みなさんとご一緒していく2025年、どれほど深い1年になることでしょうか…!

わたしの覚悟はぶれません。生涯にわたってぶれません。

ありがとう。わたしはあなたを永遠に愛しています

Blessings,

2025.1.4配信
(繋がってくださっている方に毎月お送りしています)

 

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